ほんもんぶつりゅうしゅう

仏教用語・信行用語

だいおんほうしゃ
 釈尊および蓮・隆・扇三祖の大恩を感謝し、恩に報いること。
だいじだいひ
 仏、菩薩の広大無辺な慈悲の意。無縁にまで及ぶ慈悲。
たつのくちごほうなんきねんび
文永8年(1271)9月12日、日蓮聖人は龍ノ口(たつのくち:現在の神奈川県藤沢市片瀬)にて斬首の刑に処されます。  事の起こりは同年6月、日蓮聖人との降雨の祈願くらべに敗れた律僧の良観が、幕府に対し「日蓮の厳しい他宗折伏は思想的・行動的に危険である」と讒訴(ざんそ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)したことが原因でした。これはまさに法華経に記された通り、末法に弘経する人間が受ける法難そのものでした。  しかし、日蓮聖人が処刑の座につかれると、マリのような不思議な光り物が夜空を照らし、刀は2つに折れ、斬首の役人たちは恐れおののいて刑の執行が不可能になったのです。まさに諸天善神のご守護を頂戴されたのでした。  私たちがこんにち御題目のご信心をさせていただけるのは、そうした不退転の覚悟で御弘通のご奉公をされた日蓮聖人のおかげです。その報恩の意を込めて、毎年9月12日を「龍ノ口法難記念日」と定め、全国の寺院で口唱会などの行事が営まれます。
ちょうもん
 「聴」は耳を傾けて注意してきくこと、「聞」は自然に聞こえてくることで「聴聞」と熟語になると「説法や講義をきく」という意になる。
ついぜん
 「追って善根功徳を修し積む」(追福作善)という意で、故人の冥福を祈るために、功徳となるようなことを行うこと。一般には死者を回向供養するために行う法要、仏事のことをさす。
てんじゅうきょうじゅ
 「重きを転じて軽く受く」と読む。過去世に積んだ重い罪障を、信行によって積んだ功徳力によって転じ、現世にその報いを軽く受けること。
とうみょう
 御宝前にお供えするローソクの灯、あるいは灯籠のこと。花が仏の慈悲にたとえられるのにたいし、灯明は仏の智慧にたとえられる。