ほんもんぶつりゅうしゅう

信厚寺


2016-03-13 08:03

事行山録 平成28年3月 地球の戸惑い

 今月の原稿は「東日本の大災害」より一年の時間を過ごした頃に、一度書いた事を少し変えて再度掲載を試みたいと思いましたので、少々書いてみました。思い出しますとあの日の地震と津波は大変な事でした。今でもテレビで放映された悲惨な姿は忘れる事ができません。色々な破壊を受けたものがありましたが、人間の命の事はさておき「原子力発電所の被災」は、その結果の特異性が目に残っています。結局原子炉の火は消えず、今も現実に形を変えて燃えている訳です。人間の哲学も、知性も科学も、粉砕力に打ちのめされたのです。火と波に、日本には東北だけではなく、多くの所に痛みを抱えていて、大事に至る可能性はあります。現在までに大事にならなかった事故がまだありましたが、今それらがあっても、日本では二・三の原子力発電所が発電を開始したという事が、新聞やテレビで報道されています。「いいかな?」と思っていたらすぐ故障箇所を出してしまっています。
 現実に対して「町の意見」はマチマチで、確たる意見を言う人は少ない情況、どちらかといえば、反対の意見の方が意見は強いように思えます。しかし、これも取材者の取材姿勢に誘導されている様に感じた場面もありました。ただ門外漢には良く分からないのですが、反対を強く言う人が、余り強く言われると、むずかしい事の良くわからない私も少しだけに疑問を持ちます。
 「原子力発電で発電された電力を意地でも使わないで、蝋燭をともして、石炭を焚いて空気を汚し、また、山を丸裸にしても理想実現の方がいいのかと言われるのでしょうか」といいたくなってしまいますが、東北の災害から長く色々な意見が飛び交いました。今の所、どんな起電力が現実的に危ない電力に、取って代わることができるのかを説明してほしいものです。しかし出会える手配を説明尽くしたものは見聞ができていません。確かにどんな人も、きれいな電気は欲しいと思いますが、きれいごとは誰でも言えますが、そんなに甘くないのが現実です。東北の人のジレンマは大変だと思います。それこそ「昨日は人の上、今日は身の上」が現実ですから。私達一般市民は本当の所、悩んでいるのです。津波は日本人が起こしたものではありませんが、原子力発電の悲劇は日本人の科学の扱い方を信じた報いだったとも言えましょう。今は世界の人が大陸弾道弾の実験研究より、地球上の色々な生命が生きのびる事を考える事が大切でしょう。ほうっておいても地球の終末は、確実に来るのですから。今の
人に、また子孫に滅びる日がやって来ます。