ほんもんぶつりゅうしゅう
2017年07月01日
両手を広げて届く人へのご弘通 地域活動の不思議なご縁をいただき 第5支庁・常住寺 高野徳恵
ありがとうございます。
第5支庁・東京中央布教区常住寺・千鳥会(教務部家族の会)の高野徳恵と申します。
昨平成28年度、私は10戸のお教化を成就させていただきました。本当にありがたく思っております。教化子は全員、ご住職の地元のお友だちと私たちの親戚です。その経緯を10年ほどさかのぼって、地域のご弘通への想いと併せて、ご披露させていただきます。
 ご住職と私たち家族が、敬愛する本寺乗泉寺でのご奉公を終えて、王子・常住寺に戻ったのは平成14年1月のことでした。この年から「東京都北区王子常住寺」を「熊本長薫寺に次ぐ、私の第二の故郷」と定めてご奉公が始まりました。
現在は3人の子宝に恵まれて家族揃ってご奉公させていただいておりますが、当時はまだ第2子がお腹におり、3人家族でした。ご住職とは夫婦で力を合わせて地域のご弘通をしようとお約束し、子どものご縁を活かして地域にアプローチしようと話し合っておりました。
 ご住職が幼少期のころの常住寺は、恩師・権大僧正日泰上人ご夫婦への絶対の帰依とお給仕を申し上げていたお寺だったそうです。
カリスマの恩師と、開講七五〇で75,000戸のお教化を本庁・弘通局長として先導された如く広く多くにリーダーシップを発揮されていた先住・日豊上人のコンビで、常住寺は破竹の勢いでご弘通が伸び、かつ、厳格な寺観であったとお聞きしました。
日豊上人の奥様は朝から晩までご法宅にてお給仕でしたので、ご近所のママ友などは皆無で、当時の清純師(現ご住職)は、友だちが家族同士ぐるみで遊びに行くのを、いつも羨ましく見送っていたと言います。
 ご住職は私に言いました。「ママ友をたくさん作って、家族ぐるみの付き合いを重ねて、そういう中で、お寺に人が集うようになったらいいね」と。「学校や保育園の外で親同士の付き合いが深まると、子ども同士の仲も親密になる。その関係がきっと、ご弘通のお役に立つよ」と言うのです。当時の私はまだ、それがピンときませんでした。
 小学校に入ってから、長男には親友ができました。いつでも一緒でした。「スキな場所はお寺の境内」と作文に書いて発表していたほどです。そうなりますと、子どもに導かれるように親御さんたちがお寺にやってくるようになりました。
この辺りから、人が人を呼んでつながっていくのがイメージで浮かぶようになりました。そして平成19年、長男が小学校に入学した年から、寒夏の朝参詣にご近所の子どもたちが大勢お参りにやってくるようになりました。呼んでいない子どもまで「ぼくもお寺に行きたい」と言って、続々と集まってきました。やはり、人が人を呼ぶのです。
翌年・平成20年からは毎月一回、土曜日の夕方六時から「お寺のお話し会」が始まりました。小学校のお友だちと保育園時代のお友だち、そして保護者の皆さまが集まり、本堂でお看経をあげて、御法門のかわりに仏教のお話を聞かせて、ご供養をいただきました。これが5年間続きました。
 当時、私はPTAの副会長をしていたこともあり、地元の子どもたちは全員知っていました。ところが、長男が小学校を卒業して役員を降りたと同時に、あっという間に知らない子どもたちばかりになってしまいました。
歩いて数分というせまい範囲に数千もの世帯が暮らしているということ。そして、他所の子どもはドンドンと大きくなり月日は流れているんだということを、強く実感したものです。そして「子どもお話し会」も、やがて自然消滅してしまいました。最悪の幕切れでした。
 平成25年の寂しい幕切れ以降、地域に継続してアプローチするためには、行政か教育か自治体か、何かの機関に関わるか、連携がとれていなくてはならないと感じました。例えば町会の活動などは、ずっと変わらず地域に密着しているのです。往年の常住寺は、そういう体制になっていました。
例えば前町会長が有力のご信者で、多くのご近所さんをお教化されていました。現在はそういう関係が希薄になってきています。それで新たな関係を築きたいと考えていました。ありがたいことに、現在の町会長さんが私たちを随分とかわいがって下さいます。その方から、福祉活動のお誘いを受けました。
 調剤薬局の社長さんと町会長、そしてお寺の三者でたびたび会合をしました。そして昨今、社会問題になっている「親子間の貧困の連鎖」をなくす活動をしようということになりました。そこに北区社会福祉協議会が加わり、一気に活動が始まりました。会場は、当山・常住寺です。東京都北区で第一号の「地域の子どもたちへの学習支援グループ」が誕生したのです。
社会福祉協議会が加わってからは、大学生や民生委員など、ボランティアの人が続々と集まってきました。小中学校の先生、教育委員会の方々も視察にみえたり、活動に参加されます。不登校の生徒が、常住寺には足を運んでくれるのです。なので、先生方もお寺に来れば生徒に会えるのでお集まりになる。そういうサイクルになりました。
 同時期、ご住職が地元のお友だちとひんぱんに集まるようになりました。地域活動のことも話していたようです。「地域がよくなるように。困っている人が救われるように」そういう活動をしているご住職に惹かれるようにお友だちがお寺に救いを求めるようになりました。
離婚などの家庭問題。家族との死別に苦しんでいる人。子どもの教育の問題。近隣のとの人間関係で悩んでいる人…。色々な相談が寄せられるようになりました。それを一つ一つ、ご住職といっしょにお聞きして、そして、ご信心のお話をお伝えしていきました。
平成28年度は、毎月半分くらいは、夜まで予定が埋まっているような状態でした。お教化の対象者は、名前を挙げている人が71名にも及びました。その他、八家族と諸団体の方々の正法帰入を毎日ご祈願しながらご奉公させていただきました。
 始めのお教化は、2月にお母さまを亡くされた方でした。ご住職はその方の入信書を御宝前にお供えされたのですが、ご内陣から泣いて降りてこられました。どうしたのかお聞きすると「入信書の隣にお彼岸のご回向申し込みがお供えしてあったが、たまたま、一番上に乗っていたのが、入信書を書いた本人と学生時代つきあっていた人だった」と聞きました。
 彼女の家は三代続くご信者です。2人は、強信者だった彼女の祖母から大反対を受けて結婚できなかったのです。それが時を経て、御宝前の正面に、お三宝が供えられたところに、2人の名前が並んだのです。お三宝が赤色なら、三三九度の体裁です。深いご因縁を感じました。結ばれることはなかった2人ですが、御宝前に名前が並びました。
この方は未だ熱心にお参りしたりしませんが、それでも、おもしろいことに、同級生をご信心に誘ってきます。そういう声がかりでバタバタと8人もの方がお教化になりました。
 私は初めてお会いする人ばかりで困惑したりもしましたが、ご住職にとっては同窓生です。女性のお友だちには私が主になって連絡をとりました。お数珠の持ちかたを教え、妙講一座を一緒に見ながらお看経をおあげする日々でした。
家族が次々に病気にかかる人がいます。ご主人のお母さまがガンに罹りました。その方にたびたびお供水さんを届けました。入信前にお数珠を求めさせ、いっしょにお看経をおあげしました。果たして、末期のガンが緩解してしまうというご利益をいただきました。
また、実母は重度の膠原病を長年患っており、手足にはすべて、人工関節が入っております。その人工関節が機能しなくなり、新しいものに替えなくてはならなくなりました。大手術になるとのこと。
それが、ご祈願を始めた途端に「あと5年から10年くらいは持ちそうだ」という診断にかわりました。現在、80歳です。もう今生では手術をしなくて済むことになるかも知れません。そういうお計らいをいただき、4人のお教化につながりました。
 ご縁は不思議で、地域の行政、自治、福祉などを通じてと言っても過言ではなく、ご住職はご自身のお友だちにもご信心をお勧めする機会を得て、それが花を咲かせました。わたしはお手伝いのつもりが、いつのまにか主になって動くようになり、教化親としてご奉公させていただくことになりました。
 10年前からの経緯を長々と書きましたが、すべてがつながっているように思えてなりません。
ご住職は常々「広範囲に亘って活躍するのは難しいが、両手を広げて触れることのできる人々、すなわち、家族や親しい人々には、自分がアプローチしなければ、誰がする」と仰います。そうやって、声をかけていく人が増えるよう、これからもススメ励ましたいと思います。
 常住寺では今「両手を広げて、届く人へのご弘通」「半径1メートルのご弘通」が、さりげなく展開されています。