ほんもんぶつりゅうしゅう
2014年04月02日
東日本大震災に遭遇して
第4支庁・鎌倉 顕証寺 後藤ゆみ子さん
 
 
 東日本大震災から早一年十ヶ月が過ぎ、ようやく私もちゃんとした生活が送れる様になりました。    
今も思い出したくない津波は、私達の生活を全部壊し、母親をも奪いとっていきました。真黒い水が音もなく私の膝まで浸り、必死に逃げる事で精一杯でした。その時は「これからどうなんだべー?。兄弟達は助かってぺが?。母も看護士さん達に助けてもらってっぺか?。子供達は大丈夫だべが?」頭の中はそればっかりでした。携帯もつながらないし、道路も津波で通れなく電柱に何台も車が重なっている状態。アスファルトがめくり上って川からフナとか魚がいっぱいでした。余震が続く中、最悪の状態でした。
 
 そんな中、安否確認の為、学校中の避難場所に行き捜しまくり実家は子供達、孫は全員無事。幸ちゃん達はまだ見つけられなく、やっと見つけた時は涙が止まらなかったです。でも母だけは見つけることができなく、ものすごく心配し、不安でたまらなく時間ばかり過ぎていく中、母が見つかった時、収容所で冷たいコンクリートの床に青いブルーシートで包まれ、ドンブクを着たままの状態で顔はドロだらけでした。そこはものすごい遺体がブルーシートに包まれ並んでいました。悪夢じゃあないかと思うくらい凄まじかった。今も助けてやれなかった事で思い出すと涙がでてきます。まだ行方不明の方が千人以上見つかってない中遺体が見つかっただけでもと思っています。
 
 ご住職さんが何回も石巻に来て頂いて、母が眠っている仮置場まで足を運んで頂き、とてもありがたく思っています。母の葬儀も無事に済ませる事ができ、一安心できました。私も震災で毎日夜中の二時過位になると眼が覚め朝まで眠れない状況が続き、仕事にも支障し辞めざるしかなく、毎日何もする事なく過ごしていた時、お姉ちゃんに去年の六月に北海道に一緒に行こうと誘われ、お住職さん始め皆さんと過ごした時間はありがたく有意義な旅となりました。
 
 それから私もこのままでは何も進歩しないとの思いで仕事を捜してましたら仙石病院の看護助手の募集に目が止まり「よし、受けよう」と自分を試してみようと受けたけど、中々病院から合否が来なく、一ヶ月位してから電話があり駄目だと思ってたら「合格」の言葉に自分でも信じられなくびっくりしました。「よし、受かったからにはやるしかない」との思いで今に至ってます。
 
 この信心にあえて良かった。これも母からの思いだと感じています。「ありがとうございました」の言葉は震災後心から言えるようになりました。また夏には来てけらいね、ご住職さん、山本トミさん。ありがとうございました。  
 
追伸  何にもわがなけっども供養をする為に頑張ります。
 
平成二十五年一月発表