ほんもんぶつりゅうしゅう
2024年01月18日
5支・清秀寺 高祖会・日應上人27回忌・創立100周年・住職就任言上式を行う
去る11月3日、5支東京房総布教区・清秀寺(住職・荒木誠啓師)において、高祖日蓮大菩薩御会式、別而清秀寺第2世・田端佛立寺第4世・権大僧正信住院日應上人第27回御忌法要、併せて清秀寺創立100周年記念法要、第4世住職就任言上式が本寺乗泉寺住職・永江日盡師唱導の下、東京房総布教区管内寺院の教講及び清秀寺門末『信持会』の教講参集の中、晴天のお計らいをいただき奉修されました。
 増田日應上人は、明治44年12月16日、東京市渋谷町において誕生。母けさ女は、上人2歳半の御時、33歳の若さで亡くなりました。ちょうどその頃、上人は目を患い、極度の弱視はご生涯続く事となりますが、この一件がきっかけとなり増田家は乗泉寺に入信となりました。
 また、清秀寺は関東大震災の傷跡が未だ深く残る大正13年2月7日、恩師佛立第8世日歓上人の御命を受けた荒木清秀師(開基・権大僧正日弘上人)が東京府小松川町の平屋を借家して小松川親会場を創立。昭和3年4月25日、日應上人は御歳17歳で日弘上人の御弟子として出家得度。僧名を「秀誠」といただかれました。
 同年9月、小松川親会場は現在地に移転。5ヵ年で1500戸のお教化を成就。教務員も10師に増加しました。その後、上人は、分・立石親会場(現・柴又信立寺)の担任の後、昭和16年10月20日、御歳52歳で御閑士となられた師・日弘上人の後継として、弱冠30歳で小松川親会場担任に就任されました。
 上人は、恩師日弘上人の御名を永く残したいと「清秀寺」寺号公称の為に奔走。大変なご苦労の末、昭和17年10月、ついに認可され、開基日弘上人、御自身は第2世住職に就任されました。
 第2次世界大戦の混乱期の中、田端教会(現・田端佛立寺)担任も兼務されましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲により清秀寺の寺観は灰燼に帰し、信徒も一夜にして四散となりました。戦後復興後も幾度も風水害を被りましたが、その都度、危機を乗り越える教講の強いご信心前がありました。
その後、上人は第5弘通区長、本宗財務監査委員、参議等を歴任。昭和61年10月、権大僧正に昇晋されました。平成9年11月16日、法寿86歳をもって御遷化。徒弟14師を教導された法臘69年余の御法務でありました。
 奉修御導師の御法門・御訓辞をいただき、清秀寺及び門末教講一同は、開基日弘上人、第2世日應上人、そして昨年御遷化された第3世日苑上人の御恩に報いるべく、あらためてご弘通発展に精進させていただく所存であります。