ほんもんぶつりゅうしゅう
2022年05月01日
大僧正日峰上人の御33回忌を奉修
去る3月2日、本山奥の院たる由緒寺院・長松寺において、大僧正日峰上人の御33回忌法要が、第9支庁・中国布教区・呉妙泉寺住職・藤本日涌師導師のもとに有縁の教講が参集して奉修されました。
大僧正日峰上人の功績等を鑑みれば、大勢のお参詣のもとに奉修を、と願うところでありましたが、佛立各寺院においては「感染症拡大」する中においてのご弘通ご奉公のために苦慮されておられる中でもあり、御33回忌法要であるため日峰上人をご存知の方も少なくなった等のことから、つつましき中での奉修とさせていただきました。
改めて大僧正日峰上人の行化を振り返らせていただきます。大僧正日峰上人は明治31年5月1日、現由緒寺院・長松寺において、開導聖人の息女たる品尾女の長男としてご誕生、幼名を延一(のぶいち)と称されました。弱冠13歳の明治44年7月13日に第2世講有日聞上人を師僧として旧宥清寺において発心得度され僧名を現延(げんえん)といただかれました。
大正6年には法華宗立学林専科を経て、大正10年、東洋大学インド哲学科を卒業。かねてより未来の佛立をとの思いから佛立信徒の子弟教育にそのご奉公の活路を見いだされ、東京の地において「覚英薫化会」を組織され、京都に戻られても薫化会の再興に尽力されました。佛立子弟教育を生き甲斐にしておられたので周りの人々は『くんげの現さん』と呼びあい、その人柄を慕われていました。
大正12年には文書活動の一環として「薫化の友」を刊行。長女誕生に際しては、その名を「薫(かおる)」と名付け、さらには少年音楽隊、薫化奉仕団を組織されました。昭和2年には当宗最初の『佛立少年団』を結成。加えて『薫化愛護会』を発会して薫化活動の円滑化を図れたことは、全くもって上人の子弟教育の心の顕れでした。
一方、佛立宗での僧階は、昭和14年に上座部入、16年には権僧正叙任、32年には権大僧正にご昇晋。開導聖人がご晩年に過ごされ、お住まいになった家屋、直々にお残しの御指南書「宥清寺奥の院御書」を胸に抱き、未来の佛立信徒の「心のふるさとに」せんとの思いにより、遺跡保存に尽力なされました。
その甲斐あって、昭和23年には無貪山長松寺と寺号公称され、本宗由緒寺院の初代住職に就任され、開導聖人のご遺品格護に妻君たる小千代女とともに「忍の一字」に徹して名跡保存に尽力されました。
家庭にあっては二男五女を授かり、いずれも佛立寺院の弘通最先端に嫁がせられました。上人の佛立の思いへの顕れでした。
ご晩年におかれては、「開導百遠諱」を自身の最後のご奉公と思われてか、そのお姿は今も語り継がれるもので、ご供養の席にても「思い出話」を語り合いながら古き時代のご苦労を伝えられる等、大僧正日峰上人は常に本山宥清寺に思いを馳せられ、人一倍愛されていたのだということを思い出させる歓談の数々でした。