ほんもんぶつりゅうしゅう
2023年02月01日
日蓮聖人のお手紙を通して学ぶ佛立信者のご信心と人生 その54
日蓮聖人のご信心
 「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)の如し。……今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。ただ南無妙法蓮華経なるべし。」(上野殿御返事佛立宗版御妙判集第3巻642頁)
 右の御文は日蓮聖人が当時のご信者、南条(上野)時光に与えられたお手紙の一節です。
 法華経は古来、インドにおいても、中国、日本においても最も尊い仏教経典として崇め続けられてきました。中国の天才的学僧、天台大師智顗(ちぎ)(538―597)は法華経の教説を軸にして釈尊の説かれた厖大(ぼうだい)な教えを系統化しています。日本に仏教が伝えられたあと仏教の教えに基づいて国を治めようとした聖徳太子は「釈尊がこの世に出現された本意(ほんい)は法華経をお説きになるためであった。」として法華経の注釈書を書き残しています。平安時代に入ると京都の貴族たちはこぞって法華経信仰に傾倒し、法華経の教理を学び、それを和歌にして称えました。
 平安時代の名僧、伝教大師最澄(さいちょう)は法華経の教えに基づいて日本天台宗を開き、法華経流布に努めました。
 鎌倉時代の著名な禅僧、道元は「法華経は諸経の中の王である」と重んじましたし、江戸時代の禅僧、白隠は「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に南無妙法蓮華経と唱えよ」と勧めています。
 ではこうした法華経の教えを尊んだ仏教者の法華経信仰のあり方と日蓮聖人が説き勧められた法華経信仰のあり方との間にはどのような違いがあるのでしょうか。
 法華経の教説は釈尊がこの世にましました時代(在世(ざいせ))の人々のために説かれた教え、釈尊がご入滅になった後の2千年間(正法時代、像法時代)、2千年以上時を経た時代(末法)によって内容が説き分かれています。また信心修行のあり方も人々の能力、レベルに応じて説き分けられています。日蓮聖人はこの点をよく勘案された上、末法という時代に生れた人々(本未有善の凡夫)が導かれ救われる信心修行のあり方を探求されました。そして得られた結論が冒頭に引証した御文なのです。
 「南無妙法蓮華経」と唱える御題目口唱行は日蓮聖人ご出現以前からもインドにおいても中国においても、そして日本においても行われていました。ただし口唱行はさまざまな修行の中の1つの行として、他のさまざまな修行と並列的になされていたのです。これに対し、日蓮聖人は「法華経の本門の肝心、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字となせり。この五字(御題目)の内にあに万戒の功徳を納めざらんや」(教行証御書)として、御題目を一心に一途に唱える行はすべての行を1つにまとめとった要行であるとされたのです。
 日蓮聖人が私たちに伝え残されたご信心のあり方は浄土宗系の信仰のように阿弥陀仏という仏の救済力を全面的に頼りにする、いわゆる「他力本願」でもなく、自らの知慧を磨き悟りの境地に到ろうとする、つまり「自力」に傾いた仏教でもありません。日蓮聖人のご信心は「一念信解、初随喜の名字即」という境地、すなわちウブで素直な気持で、ひたすら御題目をお唱えすることによって御本尊の中にまします仏、菩薩と感応道交させていただく、信力と仏力、経力の三力和合の、末法の凡夫に最も適した「本門八品所顕」のご信心なのです。
 「本迹二門は機も法も時も遙(はるか)に各(おのおの)別なり」(妙一女御返事・佛立宗版御妙判集第3巻299頁)