ほんもんぶつりゅうしゅう
2021年11月01日
日誠上人の宗葬 厳かに執行 77年にわたる法臘(ろう)の数々 聡明な文学の見識 親切丁寧な教導
【丸山日印上人の式文】
三宝両祖の御宝前に恭しく言上し奉る
佛立嗣法 第24世講有 本山宥清寺第65世住職
大僧正 日誠上人
去る令和3年1月30日 法壽90歳を以て今番化導の一期(いちご)を了(お)え 
寂光に還帰(げんき)し給う
上人御一代行化の法績は 赫々(かくかく)として枚挙に遑(いとま)あらず
凡そ宗門諸機関において 重責を果たされし 
その足跡たるや 広く世界に及び その志は宗門弘通に遺憾なく発揮されたり
本日茲に 本山御宝前を荘厳し 宗内教講参集して 宗葬の儀を厳修し
上人の御鴻恩に 謝し奉る
諸佛諸尊 來臨擁護し 我等が微衷を哀愍納受せしめ給え

經曰 若親近法師 速得菩薩道 隨順是師学 得見恒沙佛 文

南無妙法蓮華経
惟(これ)時(とき) 
令和3年9月29日
葬主  丸山日印
    敬て白す 

【講有上人の歎徳文】

(勧請 謹略)

本日茲に本山宥清寺御宝前において恭しく壇を設け、荘厳の誠を尽くし修する処は、本門佛立宗第24世講有、本山宥清寺第65世住職、大僧正日誠上人が、霊前帰(き)登(と)の奠に当り、恭しく其の一期行化の鴻徳を顧みるに。
上人、諱(いみな)は日誠、姓は小山也。曾祖父、本秀院日達上人は、開導聖人の最初弟子にして大津佛立寺の初住代なり。祖父、幹用(かんゆう)院日玄上人は、宥清寺奥の院にて学頭を務め、長じて本門法華宗学林長となり、数多(あまた)の教務を養成せらる。さらに、厳父日幹上人は、第16世講有、総導師として、数々の偉業を達成されたり。
日誠上人は、かかる佛立教務の家系、4代目として昭和6年3月8日、慈父日幹上人、悲母イト夫人の2男1女の長男として、東京にて誕生。幼名を哲朗と名付けらる。
太平洋戦争、戦況激化の最中、昭和19年10月13日、13歳にして、厳父日幹上人を師僧として剃髪得度、「清松」の僧名を授けらる。
昭和20年3月10日、東京大空襲により、本堂・庫裡は灰燼(かいじん)に帰し、異常乾燥にて炎が飛び火する中、金丸大御本尊・等身大以上の御尊像を大八車にお載せし、日幹上人と3人の弟子、信者とともに命懸けでご遷座され、無事避難のご利益を感得さる。空襲後、数多の遺体を隅田公園にて、来る日も来る日も荼毘(だび)に付すご奉公に従事せらる。その悲惨極まる体験を、戦後70年間、語ることをなされず。
昭和25年5月、戦後復興の中、清雄寺本堂落成開筵式が乗泉寺と同時に執行され、戦後初の全国団参が行われたり。同年10月、日幹上人が宗務総長に就任さる。
上人の足跡は、旧制府立三中学を経て、昭和28年3月、慶應義塾大学を卒業、翌4月、佛立教学院専門科に入学。翌年3月卒業。同年5月、長松日峰上人の3女、喜三子女と結婚。のち2女に恵まれる。
昭和31年、25歳。上人は「日扇聖人全集」刊行会発足に際し、編集部員に就任。平成16年6月、35巻完成に至るまで、爾来(じらい)約50年に亘り、青春の全てを捧げ、扇全の編集に尽力せらる。最後は、刊行会の総裁としてご奉公を終えられたり。
昭和42年、36歳。厳父日幹上人が、第16世講有に推戴され、昭和54年まで、3期12年の間、清雄寺副住職として、お留守を堅持されたり。
その後、昭和46年10月、40歳。上座講師に叙任。昭和51年10月、45歳。権僧正に叙任。昭和56年10月、50歳。高祖700回御遠諱の年、僧正に叙任。
昭和57年10月、51歳。清雄寺第21世住職を、日幹上人より継承さる。
清雄寺での功績は、清雄寺教職舎・庫裡の建て替えを始め、高祖700回御遠諱別修法要。開導聖人百回御遠諱第5支庁別修法要を、両国国技館にて開催。その後、日教上人百回御遠諱を、関東有縁の教講参列のもと、盛大に奉修、見事に円成せらる。
また、世間に先駆けてコンピュータを導入され、旧来の教区制を再編。連合制としてご弘通の基盤を確立し、寺運隆昌の一助となされたり。
宗門では、昭和60年広報局長に始まり、昭和62年、56歳。開導聖人百回御遠諱、奉賛局長に就任。平成2年、59歳。4月28日より5月6日までの9日間、54座。開導聖人百回御遠諱総修大法要では、本部長として法要すべての陣頭指揮を執らる。その時、最も多忙を極められたり。
平成3年9月、開導百遠諱、結実・青少年大会を、今津佛立センター用地にて開催さる。
期間中、宗門の歴史展示会の中、大放光の表紙面一覧は、上人の趣味が長じた写真が使用されたものなり。写真はその他、本山三大会、春秋の彼岸など、殆どの宗門の広報、写真掲載に貢献されたり。 
また、開導聖人奉賛歌「いのち」の作成に際し、作詞、なかにし礼。作曲、芥川(あくたがわ)也寸志(やすし)。発表会指揮を、外山(とやま)雄(ゆう)三(ぞう)の各氏に依頼するも、上人の音楽の知識・見識の資するところなり。
平成6年10月、63歳。日幹上人のご遷化の翌年、宗務総長に就任。2期6年、宗務の躍進に努められる。
翌年平成7年1月17日、阪神淡路大震災の折りには、即座に地元に駆けつけられ、被災寺院にて復興祈願のお助行、被災教講を慰問・激励されたり。
平成16年3月、73歳。宗会で次期講有に推戴され、同年7月2日、遺嘱伝承の儀にて、佛立第24世講有、本山宥清寺第65世住職にご就任。同9月21日、晋位晋山の式典を挙行。爾来(じらい)、上人は2期8年に亘り、宗門の総導師・講有として、全国の教講を教導さる。
御在位中、本山の御事績として、勤行では毎月1日、一万遍口唱会を開催。現在、179回を数える。細部に亘る寺内教講の信心改良を促進せらる。ご就任翌年には「良いお看経」をご提唱。また「佛立菩薩を育てる運動」、「佛立倍化」を訓
示され、全国教講を教導さる。
平成18年、開講150年御正当の年、記念参詣、全国代表者法要を奉修。平成210年3月、ブラジル開教百年記念法要。5月、本山草創700年記念大法要を奉修され、記念誌を出版さる。
平成20年10月より、平成の大改修が始まり、本堂大屋根瓦(がわら)葺(ふ)き替え。正門及び外壁瓦葺き替え。高祖手自開眼御霊像ご修復。講堂外壁修復。宝蔵新築。西門厠(かわや)新築。境内敷石改装。正門左に、英字沿革版を設置。西門・西壁に寺名表札・看板設置。学寮を移転・新築。教務館宿舎の改築。鳳瑞町の土地購入などを成就さる。
さらには、法要式の統一。妙講一座拝読の統一。法鼓の統一等を、全国に通達。一連の記念事業を完遂されたり。
平成21年8月、門祖聖人550回御遠諱記念、本山「青少年の一座」を奉修。平成22年2月、門祖聖人550回御遠諱御正当日に、全国住職・局長決起大会を開催。さらなるご弘通発展を訓示されたり。
平成22年、第2世講有日聞上人、百回御遠諱に際し「年間御法門集」また「宥清寺全書」を後に刊行。
平成23年3月11日発生の、東日本大震災の際には、清雄寺末寺を含む被災寺院に赴(おもむ)き、慰問され、激励のお助行に奔走(ほんそう)されたり。
同年5月、佛立第4世日教上人、百回御遠忌奉修に際し、教務員増加、班長育成・正宗徒増加の諭告を発令さる。等々ご教導は、毎年枚挙に遑なし。
2期8年中、海外巡教は9度、国内の巡教・親教は191ヵ寺、自坊・門末の大会奉修を合わせ、約300回の奉修は、殆どが晴天にて奉修、仏天加護をいただかれたり。
平成24年5月、宗務本庁が新築される。同7月2日、81歳。講有位2期8年を満了、山内日開上人に次期講有位・本山住職位を遺嘱伝承され、清雄寺に帰山される。ご在任中の本山教化誓願は、すべて達成成就さる。
講尊となられし後も、最高顧問、教学審議会委員、日扇全集刊行会総裁。また御真書等保存会顧問として、毎月宗務本庁に出向され、指導に努めらる。その際、今や上人しか知りえぬ、御指南の奥義を伝授されたり。さらに佛立教育専門学校、第5支庁佛立修学塾などで、特別講義を執られ、後進の教務育成に、四大不調の時にも、惜しみなく尽力さる。
平成29年12月、除夜法要にて、清雄寺住職退任式を挙行され、新年元旦会にて法子であり、実弟の小山日秀師に住職継承を宣言せらる。
平成30年1月14日、日教上人御正当会式に併せて、清雄寺住職継承式が奉修さる。日誠上人、得度より73年。住職在位35年なり。
平成30年10月に完成した、大野日鶯(おう)師編纂(さん)、御真書等保存刊行会による「日扇全集 語句索引」は、佛立の修学に多大な貢献をもたらす、宗門座右の書となるも、上人のご威光によるものなり。
上人の温厚篤実にして聡明な文学の見識は、宗内外に広く知られるところなり。信徒に接するときは、和顔(わがん)慈愛に満ち、気宇(きう)壮大にて親切丁寧なる教導を示さる。温和、愛語の音声(おんじょう)でなされる御法門は、位(い)弥下(みげ)にて分かりやすく、聴聞の教講は、心に染み、み教えを感得せしものなり。
直(じき)弟子に対しては厳しく叱咤折伏するも、寛仁(かんじん)大度(だいど)にて、信心退転の危機より救われたる弟子・信徒は、数多に及ぶところなり。有縁の教講に、度々ご供養を賜り、常に心付けを忘れず、再三のご高配に下々(しもじも)は恐縮し、恐れ入るばかりと、漏れ伺いたり。
また特筆すべきは、東京の大学に入学せし、地方寺院の学生教務を預かる寺風は、第4世日教上人より、第16世日幹上人に引き継がれ、上人も多くの学生教務を、指導育成されたり。その歴代学生師の法脈は、日幹上人の院号より、信(しん)誠会(じょうかい)と称して現在も続き、各々が宗門の要職にて活躍するも、清雄寺歴代住職の遺徳によるものなり。
上人の孫、真鍋大度(だいと)氏は、世界屈指のメディア・アーティスト・プログラマーとなるも、上人の影響が多大なる所産なり。また大度氏が、上人の母校、慶応義塾大学にて、特別招聘(へい)講師に勤務するを聞き、殊の外お喜びになられたり。
令和元年5月、第25世講有日開上人、宗葬の葬主を勤められた際、時点の遺影を撮られ、本日の葬儀に備えられるも、無常の覚悟の現われなり。四大不調にも関わらず、宗門行事、後進の指導育成等の、ご奉公に専念される姿は、実に尊きものなり。
本年、元旦深夜の祝盃式、3日の初総講にもお出ましになり、今、コロナ禍であればこそ、お祖師さまの真(まこと)の弟子旦那として、ご弘通ご奉公を怠ってはならないと、気迫に満ちた、激励の御法門を拝されたり。
6日よりの寒参詣は、皆参するとの、ご意向を示された矢先、7日に体調が急変す。
これまで幾度も難病を克服、起死回生のご利益を顕され、またこの度も、法体ご回復へと願いしも、遂に叶わず。臨終正念を迎えられたり。
嗚呼(ああ)、まさに巨星堕(お)つ、空前絶後の悲しみ、悲痛なれども、諸行無常は娑婆の習い、会者定離(えしゃじょうり)は浮世の理(ことわり)にして驚くべきに非ずと雖(いえど)も、有漏(うろ)の凡情いかでか之(これ)に耐(たま)うべき。講尊として、今後益々の滋訓を垂れ賜んことを、全宗門人が切望せしも虚(むなし)く、還復(げんぷく)することなし。
今、未曽有の世界の混乱、宗門繁栄危惧に及ぶ秋(とき)、上人の如き絶大たる有徳の善知識を喪(うしな)いたることは、洵(まこと)に痛惜措く能(あた)わざる処也。嗚呼惜しい哉、悲しい哉。
更なる教導を賜りたい。また、せめて新本堂完成まで御存生(ぞんじょう)をと願いしも、令和3年1月30日、午前9時42分、家族・弟子一同の唱題の中、一天安祥として、化(け)を寂光に遷(うつ)さる。時に法寿90歳、法臘77年也。
上人の、あのお優しい笑顔を拝すること。謦咳を再び聞くこと叶わず。今は我等のご奉公に、冥護の厚からんことを請い願うのみ。
唯願わくは、菩薩化境機尽(けきょうきじん)の大悲に委(まか)せ、師檀世々生(しだんせせじょう)を俱(とも)にして、浄仏国土の大願成就と、日誠上人の尊霊、四徳常住の浄刹(じょうせつ)に帰住し、本覚(ほんがく)寂(じゃく)照(しょう)の内証明らかに、此(こ)の歎徳を能受し給わんことを。

佛立第24世講有
大僧正日誠上人 御威光倍増 法楽荘厳 御報恩謝徳
経曰、若親近法師 速得菩薩道 随順是師学
得見恒沙佛文
本門八品所顕 上行所伝 本因下種の 南無妙法蓮華経

維時 令和3年9月29日

本門佛立宗 第26世講有 日良 敬白

※宗葬での歎徳文と一部相違があります。ご了承ください。(佛立新聞・編集部)