ほんもんぶつりゅうしゅう
2015年06月02日
11支庁修学塾「沖縄戦戦没者慰霊法要」を行う —終戦70年の研修学旅行として実施—
去る4月21日から2泊3日の行程で、沖縄へ第二次世界大戦沖縄戦戦没者慰霊法要と戦争跡地や米軍基地周辺の見学をさせていただきました。

 1日目は、午前便で神戸空港を出発し那覇空港へ。空港からは貸切バスに乗り換え沖縄本島最南端の糸満市へ移動、昼食をとった後に「ひめゆりの塔」を訪問しました。ここでは、バスガイドさんから戦争当時の説明とひめゆり学徒隊の話を聞き資料館を見学しました。

 次に、糸満市から車で約45分の宜野湾(ぎのわん)市にある「嘉数(かかず)高台(たかだい)公園」に行きました。この公園は今でも当時の日本軍が使用した「トーチカ」があります。公園の頂上にある地球儀をイメージした展望台からは、普天間基地が一望できます。どれだけ基地と住宅地が隣接をしているかも、上からみれば一目瞭然でした。

 2日目は糸満市にある「魂魄の塔」で慰霊法要を勤めさせていただきました。ここは沖縄で戦後一番初めにできた沖縄戦戦没者納骨慰霊塔です。戦後、この近くの地区に収容されていた村民に対し米軍は食糧確保の農作業を命令しました。しかし、この一帯は多くの軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所であったため、至る所に遺骨がそのまま放置されていました。村民は米軍にまず遺骨収集作業を要請しましたが、それが反米活動や皇軍主義に繋がることを恐れ、すぐに許可がおりませんでした。しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てきて作業が進まず、1946年2月23日にようやく許可がおりました。遺骨は一箇所に集められ、大きな穴の中に収められていきます。 それでも収まりきれず積み上げられ大きな骨の山が築かれました。周囲から石をかき集め遺骨の山の外側が石で固められ完成しました。そこには最大で約35,000霊のお骨が納骨されておりました。そのほとんどが身元不明です。

 続いて平和祈念公園に移動し、公園内にある「国立沖縄戦没者墓苑」でも慰霊法要を勤めさせていただきました。この墓苑は沖縄県で唯一の国立の戦没者慰霊地で、沖縄戦で尊い命を失った18万余の遺骨が納骨されています。その後、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」を見学しました。

 次に、バスで約1時間北へ沖縄県中部読谷村(よみたんそん)の戦争跡地「チビチリガマ」と「座喜味(ざきみ)城跡」を見学しました。「チビチリガマ」の「ガマ」とは、壕のことです。この壕では避難者140名のうち83名が集団自決をしました。その半数以上が18歳以下であったそうです。当時の余りの悲惨さに、戦後38年間その出来事すら口にする人もなく、誰にも知られることはありませんでした。

 続いての「座喜味城跡」は、琉球王朝時代の城跡で世界遺産にも登録されています。戦争当時は日本軍の砲台が設けられたせいで、米軍の反撃に遭い一部城壁が破壊されました。城壁の上からは、読谷村とその海岸線が一望できます。

 その後、ホテルへの向かう道沿いの「道の駅かでな」で休憩、同4階展望テラスから隣接する嘉手納基地を眺め、離着陸する戦闘機の爆音の凄まじさは想像を超えるものでした。

 最終日は飛行機の時間もあり午前中は自由行動、少し早めの昼食をとり那覇空港へ向かいました。

 終戦70年を迎えても沖縄の至る所では、未だ戦後時間が止まっているように思います。反面、国際通りのような観光地は年々発展を遂げています。沖縄には二面性があるように感じました。2泊3日の行程で、最大限行けるところは訪問しましたが、まだまだほんの一部です。それでも移動中を含めたバスガイドさんの詳しい説明を聞きながらの研修は大変勉強になり、何より上行所伝の御題目で「魂魄の塔」と「国立沖縄戦没者墓苑」のご回向がさせていただけたことはまことに有難いことでした。この研修を一度きりで終わらせることなく、せっかくのご縁を大切に、これからもご奉公がさせていただければと思っております。

(第11支庁修学塾 副主任・谷口隆明 記)