ほんもんぶつりゅうしゅう
2016年04月05日
樺太ご弘通の足跡を辿る(1)—青年教務会の慰霊ご奉公に当たり—
〔はじめに〕

 ありがとうございます。本年8月に予定しております「佛立青年教務会樺太戦没者慰霊ご奉公」の実施にあたり、宗内の皆さまに少しでも樺太でのご弘通についてお知りいただきたく、佛立新聞の紙面をお借りして、その歴史を連載にてご紹介させていただきます。ご紹介いただく筆者は、東京乗泉寺・宮崎日良師で、御尊父の故・宮崎日照上人は実際に樺太で戦前から戦後にかけてご奉公をされていた方です。本連載を通して少しでも樺太を身近に感じていただき、慰霊ご奉公にご賛同・ご協力いただければ幸いでございます。

合掌

佛立青年教務会


〔サハリン(旧南樺太)弘通への足跡〕

1.妙法御因縁の地(北海道とサハリン)

 サハリン(樺太)は、今から720年前に高祖日連大士のお弟子、六老僧の一人、蓮華阿闍梨日持上人が妙法弘通された地であるとされております。その御遺跡によれば、高祖御七回忌後、東北方面、仙台、青森、弘前にて妙法御題目の布教活動をなされ、その後、北海道に渡り、檜山、松前、函館方面で布教されております。

 逸話では江差より舟で渡樺中、豊漁祈願を舟中でされ、御題目を唱えたところ今まで見たことない魚が採れたことから、「ホッケ」と付けられたと言われています。上人は旧樺太本斗(ネベリスク)に上陸され、樺太弘通が始まります。この本斗町に「ヒモチ(日持)」という地名が残っており、日持上人御染筆の題目石が存在しているということです。樺太布教後、北樺太の旧落石(オッチシ・アレクサンドロフスク、サハリンスキー)より海外布教として満州、蒙古(モンゴル)に渡ったとされています。

 このように日持上人によって、妙法弘通は720年前の鎌倉から東北・北海道・樺太・海外へと広宣されていることから、現在に至るまですでに妙法に包まれた深いご因縁の地となるのであります。しかしながら、日持上人が唱題された本門の大法、上行所伝の御題目が下種されていた北海道の地で610年を経過した明治末期,再び大法の鼓を鳴らし唱え弘めたのは、岡野現相師(聞解院日信上人)であります。当時、佛立宗は本門法華宗の傘下にあり、二世日聞上人や三世日随上人が貫首になっておられました。このような事情から、上総鷲山寺(法華宗五大本山の一つ)に止住されていた現相師は自ら志願し、未開の北海道の中でも辺鄙な田舎町での寒さと激務、文字通り不自借身命の御奉公が開始されたのであります。

 その後、御題目口唱とお供水の経力現証で弘通伸展しつつ、一時は怨嫉もあったようでありますが大正7年、徐々に弘通教線が弘まった地が、現八雲・本現寺であります。これを契機に本州より北海道弘通の御奉公が進められ、大正10年頃、東京乗泉寺第八世講有日歓上人の徒弟で佐藤随道師(本護院日永上人)が札幌にわたりご弘通が開始され、教化もでき仮親会場を建立(北一条西23丁目)、昭和11年、札幌親会場として認可されたのが現・信廣寺の前身であります。

 函館の弘通は、大正末期頃で乗泉寺信徒(高田松太郎・山城市太郎・向井清健)が移住しこの3人が中心となりご弘通が開け、大正15年親会場が千代ケ岱に建立されたのが現・信照寺の前身であります。担任として札幌でご奉公されていた日永上人は、岡野現相師に札幌のご奉公を任せられ函館へ着任されました。しかし着任2年後、大正2年1月に日永上人が御遷化なされ、その法労に報いる思し召しから、日歓上人のお弟子であるご子息の佐藤随儀師(千葉唱題寺・久遠院日厚上人)を後任として差し向けられ、無事開筵式が執行されました。日厚上人は十数年北海道でご奉公なされ、昭和七年ころ千葉へ転任されます。その後任として信清清亨師(信受院日精上人)がご奉公にあがられます。

 そうこうするうちに本部京都より、蔦谷憲了師(本蓮院法経日萬憲了法師)が小樽へこられ、小樽随信組を作られます。ここを拠点に教線は樺太へと伸び、後、当地に小樽親会場が建立されます。現・小樽信受寺の前身であります。戦前より野原日海上人のご配慮により京都から小樽へこられていた村本信護師(信常院日長上人)が、憲了師遷化後(昭和10年ころ)暫くの間、小樽随信組のご奉公をされ、間もなく樺太にわたり、昭和11年7月大泊町に随信元組を作り、親会場としてご奉公されていました。また、樺太落合町にも函館第二支部所属のご信者がおり、派遣教務がご奉公しておりました。

 昭和11年、落合親会場に青年教務であった菊池教文師(精進院教文法師)が赴任常在していましたが、昭和13年にご遷化したため、その後、落合親会場を閉鎖することとなりました。 

 昭和15年3月3日、大泊親会場でご奉公されていた村本信護師が満州へ転任することになり、かねてより樺太へ派遣ご奉公にあがっていた宮崎教幸師(北照院日照上人)が、同年3月28日付けで正式に樺太大泊親会場常任となり、落合親会場に護持されていた金丸御本尊と御尊像を奉安・御遷座申し上げご奉公することになりました。これより昭和23年の終戦後、引き揚げまでの御奉公へと進みます。このころは、本部直系と東京第二支部函館親会場の二系統でしたが、昭和16年より函館支部担任であった信清日精上人の教導下に一任、本部・東京第二支部の二系統が1つに統合され、終戦までの間、妙法弘通のご奉公がなされたのであります。

(つづく)