ほんもんぶつりゅうしゅう
2024年05月01日
佛立宗の古刹を訪ねて⑫ 東京第3支部として 光隆寺② 関東大震災では建営ご有志を御見舞金に
明治時代のご弘通に関して、明治32年(1899)末から光隆寺に入寺された佛立第9世講有日聲上人の記録から、ご紹介します。
明治35年に入るとようやくご弘通も軌道に乗り、信徒戸数が百を越えた折には、100戸成就記念と染め抜いた風呂敷を信者に配ってお祝いしました。この年、初の組となる要行組を樹立。これが、約40年後の昭和14年(1939)、日聲
上人御遷化の翌年には80組を数える光隆寺の土台となりました。
要行組は10戸足らずの組ながら翌年、病気平癒のご利益で教化になった小川セン姉の弘通によって大きく発展します。明治40年頃にかけて、後の光隆寺に多大な貢献をする信徒や、その先代・先々代に当たる人が次々と入講し、明治42年には要行組は8部に分けられました。
明治44年、当時信徒が増えていた横浜に、最初の親会場(後の本立寺)を建立します。大正4年(1915)には部の数も12に達し、それぞれを組名に変更。弘通発展に伴い本堂は手狭となり、同年5月に改築工事を決定・着工します。1年後の大正5年(開導聖人27回御諱正当)5月に本堂・納骨堂・庫裡竣工。総工8,000余円でした(この本堂は後に移築され、現在も横浜・本立寺の本堂として遺ります)。
翌6月、日聲上人は当時の本寺である沼津光長寺より「寺院改築の功により寺格を永聖寺に昇じ、光隆寺中興開山の称号を授与」され、管長より賞状と念珠を贈られた、と記録にあります。
同6月25日、第3世講有日隨上人の御親修にて開筵式が奉修されました。9月には納骨堂開堂式。この年「東京第3支部」の支部名をいただき、名実ともに1支部として独立します(それまでは「親会場」と呼ばれていました)。
現在も当山本堂にご奉安の御本尊は、この時の日随上人御染筆の大御本尊です。御本尊には「大正4年9月上浣」の日付と、正面御尊像の背開眼には「大正4年10月中浣 安置之 本門佛立講 第3支部 常住」と「権僧正 現行(日聲上人)」
の拝書名があります。
大正中期の当山のご弘通発展は目覚ましく、この当時の役中のご奉公が、後の光隆寺の礎となりました。大正8年頃から、信徒数の増加に伴って本堂はさらに狭隘となり、麻布大本堂の建築が発願されます。道場改築のため3ヵ年計画で建営御有志の勧募を行いました。
しかしこの建営ご奉公の中、大正12年に関東大震災が起こります。これを受けて日聲上人は計画を無期延期とし、集まった御有志を御見舞金として罹災信者に払い戻し、お下げになられました。このことは当時の信者の口を借りれば「当時の猊下の御英断と温情は、罹災信者の感激の的で、それはたちまち震災直後、当支部異常な弘通発展となって現れました」といいます。
この大本堂建立の事業は震災の復興後すぐに建議され、35万円の予算が議決され、昭和11年3月22日起工、同年10月4日に上棟式、翌12年8月、本堂落成。全体の形は本山・宥清寺をそのまま1回り小さくしたものです。総建坪は約306坪(大本堂造営部が約151坪、鉄筋コンクリート造りの地階が約154坪)でした。
前月に勃発した日中戦争の影響もあってか、ここまでを第1期工事として、残された地階整備・門塀の新造・事務所等は第2期工事として延期され、10月3日に御遷座式を挙行。ここまでの予算は約15万円(現代ではおよそ35~40億円)ほどでした。
この大本堂は昭和19年9月、日淳上人の御親修にて開筵式を奉修されますが、昭和20年5月25日、夜10時からの山手大空襲によって焼失してしまいました。
なお関東大震災から大本堂建立の間には、大正13年に静岡親会場(後の本要寺)建立、同14年に都下、立川に別院境内地(墓地)購入。昭和初年、埼玉方面の信徒に大宮本清組と組名を下され、昭和4年に大宮親会場(後の妙法寺)の本堂建立、昭和8年には蒲田に仮道場を建て、第3久遠教会(後の久遠寺)が発足。同年5月には静岡県清水市に仮道場、清啓組の組名と護持御本尊を聲尊より下賜され昭和12年9月には清水親会場(後の清啓寺)として道場建立。昭和11年には浜松親会場(後の要行寺)にて日聲上人が開筵式を奉修されています。(了)