ほんもんぶつりゅうしゅう
2015年06月13日
幾度も危機を乗り越えガン克服 —多くの応援をいただき全てご利益と感得—
第4支庁・清啓寺 上野秀子さん
 
 ありがとうございます。昨平成26年の1月上旬、食欲不振と身体のだるさを伴う体調不良が続いていました。その時は「風邪が長引いているのだろう」と軽く考え、部内のご信者さんをお寺から家まで送り、帰ってから横になろうとしたところ「絶対に病院に行かなくては」と強く感じたのです。背中を押されるように掛かりつけの磯貝医院を受診しました。
 
 診察後、先生から「右の卵巣が大人のこぶし大ほどに腫れている。これはすぐに大きな病院で見てもらった方が良い」と言われ、県立総合病院を予約していただきました。血液検査の腫瘍マーカーも異常値を示しており、自分でもそれがガンだとわかりました。その時、私は「死ぬんだな」と思ったのです。
 
 県立病院での検査結果は予想通り悪性で「すぐに手術に取り掛かりましょう」と言っていただきました。手術までの一週間、腹水が溜まってお腹は妊婦さんのように張り出し苦しかったです。お寺にお参詣し、他寺院への御会式参詣も済ませてから入院しました。先生から「もし他のガンだったら危なかった。これなら充分治療できますよ」と、「もう助からない」と決め込んでいた私に「助けてくださるかもしれない」との一筋の光が差しました。
 
 希望を胸に手術しましたが、予想に反しガンの癒着はひどく、切除すれば他の臓器をも傷つけかねないとのことで、組織の一部だけを切り取って閉じました。術後、先生は「ごめんね、取れなかったんだ。でも心配しないで」と言われました。
 
 手術の傷も良くなり、今度は新たな治療として抗ガン剤を投与し、ガンを小さくしてからの再手術と決まりました。幸い先生も「このガンは抗ガン剤がよく効くタイプです。効き始めたら周りに散らばった小さなガンもすぐに綺麗に無くなってしまいますよ」と言われました。もう一度、希望を持つことができました。
 
 一回目の抗ガン剤投与が終わり、副作用から腹痛のひどい日もありましたが「食べなければ退院させてもらえない」と思い無理に食べました。というのも、清啓寺では3月30日に御会式があり、その日は鵜飼行歓師が第三世ご住職になられる大切な日だからです。先生に事情を話し「何とか当日までに退院させてください」とお願いしました。そして無事、退院することができました。誰もが驚くほど、行歓師はその日ハッキリとした声でご挨拶され「やっぱり行歓師」と、心からお仕えさせていただきたいと思いました。
 
 抗ガン剤治療は効果なく、さらに強い抗ガン剤を投与することになりました。先生も「今度こそは大丈夫」と言われながらも焦りを感じられ、腫瘍マーカーも日に日に上がっていきました。
 
 行歓師が6月1日、ご遷化になりました。突然といえば突然ですし、そうでないといえばそうでない。ご信者の誰もがそう思い、ご子息の清晋師もそう覚悟されていて、それでもいつも駄目なところを笑顔でご利益をいただき帰って来られる行歓師です。現証ご利益をいつもそのお姿で教えてくださった行歓師です。ウソだと思いました。
 
 副作用で白血球値が下がり、感染症予防のため個室管理で入院していたそのときは「正常値に戻らないと行歓師に会えない」と必死でお願いし、葬儀の前日、数値は突然正常値に戻りました。病院からお寺に直行し、行歓師にお会いし、真っ白で若返られ、綺麗なお姿で眠っているようでした。ありがとうございました。
 
 葬儀が終了して体調は悪化し、先生からも「とても難しい状況です」と告げられました。でも不思議と動揺はなく、心の中では「大丈夫」と思いました。「このままでは納得いかない。なんとかガンを小さくして再手術できるまでに持って行きましょう」と先生は言われ、私は新聞で読んだ薬を思い出し、その事を伺おうかと思ったとき、先生から「分子標的薬という薬があります。今度はそれを使ってみましょう」と言われました。
 
 一回目の投与に変化はなく、二回目の投与が終了した頃、腫瘍マーカーはどんどん下がって行きました。再び手術できるまでにガンは小さくなり、今年の1月27日、無事、手術でガンを残すことなく切除していただくことができました。同時に胆石まで取っていただきました。
 
 そんな事を言うと「何でそんな時に馬鹿なことを」と思われてしまいますが「できたら胆石も一緒に取ってもらいたい」と先生に言おうとしていたのです。「そうなったら良いな」と思うことが次々に実現し始め、体調はみるみるうちに回復していきました。「これで御宝前のお役に立たせていただける」と強く感じさせていただけるようになりました。
 
 今回、私の病気が見つかり清晋師をはじめ多くのご信者さんが、すぐお寺とそれぞれのお宅で朝と夜の詰め助行を始めてくださいました。再手術が決まる12月までのおよそ1年もの長い間、毎日お助行をしてくださったのです。「これは絶対に元気になって恩返しさせていただかなくては」と思い、それでも時折、不安にかられることもありました。その度に「迷ってばかりで申し訳ありません」と御宝前にお懺悔し、そんな弱い私を変えてくださる出会いがありました。それは博多・光薫寺の高原達成さんという方でした。清晋師と一緒に病院にお見舞いに来てくださり、御宝前と真っ直ぐ向き合っていない私を知り、退院後、何度もお折伏してくださいました。「大丈夫ですよ。でもご利益をいただくまでには良い事もあれば悪い事も何回もあります。その度に一喜一憂しないように、それより何も考えず化他行をさせていただきましょう」とお折伏いただき、清水市内を御題目を唱えながら下種して歩くようになりました。
 
 お教務さんのように衣を借りて着けていると、「お賽銭です」と持って来る人があったり、子供たちが不思議そうに眺めて付いて来たり、先導してくれたり、涙を流して身の上話をしてくださる人もありました。大変でしたがほぼ毎日、御題目をお唱えしながら下種に高原さんと一緒に歩かせていただきました。
 
 数年前に夫をガンで亡くし、手放せず家に置いてあったお骨もお寺の納骨堂に納めるようお折伏いただき、そのようにさせていただいたら心の闇がスッと消え、晴れ晴れとした気持ちで生きる気力が湧いてきました。毎日のお助行でも、それこそ私でなく高原さんが倒れてしまうんじゃないないかと思うくらいの熱烈なお助行をいただき、有難さと申し訳なさで一杯になりました。もちろん他のご信者さんもです。その大きな声のお看経につられるように、他の方々も力強くお看経してくださり、そのお助行中にいろんな現証が出てきて他のご信者さんも次々にご利益をいただかれ、いつしか自分のことより他のご信者さんのお願いを叶えていただけるよう必死でお看経している日もありました。「ここまでしていただいたら、もういいかもしれないですね。死んだって。また生まれ変わってご奉公させていただけばいいんだし。生々世々菩薩の道を行じ…」と、そんな事を清晋師と話しながら、それでも弱気を口にすればピシャリと厳しくお折伏いただきました。いつも身近にご教導いただきました。
 
 11時間かかった手術でのお助行、これまでのお助行、このご恩を忘れることはありません。また、小学校時に姉と競うように夏期参詣にお参りさせていただいた清流寺羽村別院でも、姉から話を聞きつけられ、すぐに当病平癒のご祈願をしていただきました。心より感謝を申し上げます。私は一人で戦っているのではない。沢山の方の応援をいただき、御宝前に助けていただいている、生かしてもらっていると心から感じさせていただきました。病気は嫌ですが、今では起こること全てがご利益と感得させていただけるようになりました。そして「お懺悔なくしてご利益なし」と、日々これまでに積んできた罪障を懺悔し、喜んでご奉公させていただきます。これからも下種に歩いて、ご信心をたくさんの方にお勧めいたします。それが恩返しであり、いま私に与えられた残りの人生と感じさせていただいています。ありがとうございます。