日扇聖人のご紹介

 

日扇聖人長松清風 18171890は、江戸末期の文化14年(1817)京都市蛸薬師通室町の商家、大路家に誕生しまし。文芸の才に優れた日扇聖人は14のときに平安人物誌現在の人物年鑑の「画」の部に名を連ねました。青年期には江戸に遊学し松崎慊堂の門人となり26若さでひとかどの町人学者として知らせるようになり、歌人、書家として名を馳せます。

将来を約束された日扇聖人でしたが、母の死と自らの大病をきっかけに仏教各派の研究のち京都本能寺で開かれた揮毫会を縁とし法華経本門八品上行所伝の御題目の信仰に目覚めることとなりました。

 

 当時の仏教界は、幕府による檀家制度に長く浸かり、布教を忘れて死者の回向を専らとし堕落した状態に陥っていました。本来仏教生きている人のための信仰」を取り戻すべく、日扇聖人は32の時に淡路の法華宗隆泉寺で出家得度しましかし、当時の法華宗や仏教界にとって、文化人として名を馳せ仏法に精通し、民衆の救済に身をささげようと求道の志に燃える日扇聖人の存在は目障りなもので様々な弾圧にかかります。それでも日扇聖人は、久遠本仏の使者、日蓮、日隆の正統をつぐ後継者という志を胸に「本門佛立講」を開講されます。日蓮聖人は「私はどの宗の元祖でもなければ、開祖でもない」明言されています。この精神を受け継ぎ、開祖教祖などという人が立てた人立宗ではなく、「仏さまが立てた宗」である本門佛立宗(講)安政4112きました。

 

 以来、難しいおしえの内容を平易な和歌に詠んだ三千余首の「御教歌(ごきょうか)」を作成し、民衆に親しみやすい形で仏教、日蓮聖人のおしえを伝え続けました。御題目の口唱行と現証のご利益によって京阪神を中心線が広がっていきました。そして、明治23717日、激動の生涯に幕を閉じられます。

 

 本門佛立宗では日扇聖人を「開導聖人」ともお呼びします。「開導」とは開発(かいほつ)教導の略で、門祖日隆聖人滅後430年余り、その法義・宗風が絶えようとする時、本門佛立講を開らかれ、正しい信心の道へと導いてくださったという意を込めて尊称する言葉です。