ほんもんぶつりゅうしゅう

信厚寺


2015-07-11 09:29

事行山録 7月英知ある政治を


 今年ももう七月です。一年の内七月、八月は、今年八十一才の私にはつらい過去を思い起こす月です。太平洋戦争の最末期、生きて行く事が危ぶまれる年月でした。
 名古屋も、豊橋も、岡崎も、空襲で焼け野原でした。主食の配給は米ではなく甘藷であれば良い方でした。私の家にはラジオはありませんでした。新聞だけが目であり耳でした。私の父は新聞記者でしたから、三種類ぐらいの購読をしていましたが、それも負担になる様な家計の情況でした。結核の父、母と母方の祖母、私の弟妹が四人でした。父は床に臥していて、病状は良くありませんでした。専門の先生は少なく産婦人科の先生に脈を取ってもらっていました。その病院は今でもあります。当時は今の様な結核対応の薬等は無く、どんな薬を頂いていたのか想像もつきません。特効薬といわれる薬が出て来た様に思いますが、父はその薬の恩恵を受ける事が出来ませんでした。もしあったとしても、保険等無かったので所詮は高嶺の花だった事でしょう。暗い戦争末期の我が家の姿でした。多くの家庭が生きるために必死の努力でした。
 戦争が終わった時、父は病床で「これからは自由経済の時代が来る、真実がかける時代が来る」と母を相手に語っていましたが、その日を見ず旅立って行きました。棺も買えない情況でしたが、何とか父を送りました。棺を大八車をかりて火葬場まで連れて行きました。小学校六年生の私は、父方の祖父と一緒に太い舵棒を引っ張りました。誰も見送る人の無い「家族葬」でした。確かに戦争は終わったけれど、それから私達家族は生きるための新たな「戦争状態に入れり」でした。戦後七十年が過ぎ、私は父の倍以上生きました。父の残したものを頂いたのかもしれません。
 近頃の新聞を見ていると大変複雑な気持ちになります。安倍総理の言葉や考え方も勿論ですが、取り巻きの言うことも軽薄だと思います。かつて私が本山に行かして頂いた時、本山には戦争の時、強制されて安置させられた天皇制の遺物が残されていました。しかし知らないうちに取り払われた様ですが・・…伊勢神宮信仰にかかわるものだと、先輩に教えられました。軍国主義華やかな頃、それを祀らなければ仏立宗をつぶすといわれ、宗門上層部が涙を飲んでせめても別勧請でと内陣には入れない形で難を忍んだということを聞きました。信徒にもそうさせろと難題をふっかけたとも聞きました。昔と今は憲法も違っていますから、ここまではできないでしょうが、近頃の新聞テレビの報道から、憲法で保証されている基本的人権を収奪する様な言動を明らかにする自由党議員が沢山いると言う事は大変な事だと思います。安倍さんには安倍さんらしい政治理念がありましょうが、国民はつい先日その人を選んだのですから、国民の考え方が少し甘いかもしれません。世界情勢は確かに難しい情況です。しかし、戦後歴代首相が手をつけなかった意味をしっかり考えて欲しいと思う国民も沢山いると言う事です。ある有名な政治家が「変える事はやさしいが、失ったものを元に戻す事はむずかしい」と言ったそうです。重みのある言葉と思います。御題目が自由に唱えられなくなる様な国にして欲しくない事だけは確かな事です。信教の自由を奪う御先棒を担いだ宗教人が、戦後は何の裁きうけず、田舎の神主に戻って余生を送ったと言う事ですが、多くの英霊に何と言うべきでしょうか。矢張り何時の世も舵取りがむずかしいのが政治でしょう。しかしむずかしくても、言うべき時は言うべきですし、行動もすべきでしょう。近頃宗門も少しずつ声を上げているのは良い事だと私は思います。かつての彼等も日本人、今の私達も日本人です。今日本人は「憲法の基では一応平等」です。どの道を選ぶかは自由であると言う事です。「侵されない英知は何か」それも良く考えてみる事が、国民が主権を手に握っている以上は、国民が考え、行動すべきです。皆自己責任です。でも先人の涙を忘れては駄目です。