ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-09-04 10:12

9月4日の隆宣寺日記

目に見えないものを「有る」と証明するのは難しいことですが、目に見えないものを「無い」と証明するのも極めて難しいことです。「見えないけど有る!」は主観的だと言われるかもしれませんが、「無いもんは無い!」というのも主観的な判断でしかありません。結局、目に見えないものの有る無しに《証明》という話は不向きなのです。
 
特に、信仰面の話で言えば、もはや「信じる」「信じない」ということであり、その中で、目に見えないものが「有る」と感じられる、ハッキリと認識できるのは、どうしても「信じる」という心、信じようとする思いがある人に限られてきます。「信仰によって、こういう結果になった」という話も客観的に証明なんて出来ません。でも、目の前には1つの結果があらわれ、その現実が私達にとって全てなのです。
 
B'zの『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』という歌の中で「信じる者しか救わない、せこい神様拝むよりは」という部分があります。確かに、キリスト教などの一神教は、そういう風なのかもしれません。しかし、仏教は「信じない人を救わない」という考え方は一切ありません。むしろ「信じない人をどうやって救うか」ということを最大のテーマとしています。
 
「どうすれば、みんなが仏の道を信じて、歩んでくれるようになるだろうか」ということを、仏様は1年365日24時間ずっと考えて、あれこれと創意工夫をされています。それこそ生きとし生けるもの全員を救い尽くすまで、仏様の活動が終わることはありません。つまり、仏教的に言えば「信じ始める」ことで「救われ始める」「幸せになり始める」ということ。たとえ、信じ切れていなくても《仏の道》を歩み始めれば、信じ始めたことになります。
 
仏様が人々の運命を左右するのではなく、あくまでも運命を決めていくのは自分自身です。その上で、仏様が悟られた「正しい道」「正しい生き方」を信じて、歩んでいくこと。そこから人生の軌道修正が始まり、運命が刻一刻と良い方向へと変わっていきます。「そのことに早く気づいて欲しい、信じて欲しい」というのが仏様の切なる願い。とにかく「歩み始める」「歩み続ける」ことが、何よりも大切なことだと言えます。
 
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