ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-10-15 11:01

10月15日の隆宣寺日記

たった一文字、たった一言であっても、そこにはいくつもの意味があります。自分としては「〇〇」の意味で発した言葉であったとしても、相手は「▲▲」という意味で受け止めてしまうこともあります。なので、そういう可能性があることを意識して言葉を選ぶことが大切で、思いつくままにしゃべっていると、思わぬところで誤解を招いてしまい、思いがけず人を傷つけたり、信用を失ったりすることにもなりかねません。
 
特に、道理として「正しい」ことを言う時は注意が必要です。正論の通りに物事が進めば、それに越したことはありませんが、その通りにならない場合、できない場合、例外的なことがあります。いわば「やむを得ず」「不本意ながら」正論から外れてしまっているケースです。この場合、当の本人が最も「申し訳ない」という気持ちになっているもので、そこに真正面から正論をぶつけるのは、まさに追い討ちをかけるようなものです。
 
正論を口にする人も、恐らく相手を傷つけるような悪意はないと思います。ただ、残念ながら、その場の状況や相手の思いを汲み取らなければ、切れ味抜群の「正論」という刀、真剣を大上段に構えて(振りかざして)、むやみやたらに振り回しているようなもので、大変危険な行いなのです。「正しいことを言って何が悪い!」ということかもしれませんが、正論も「言い方」を間違えれば、もはや正論ではなくなってしまうのです。
 
そう思うと「正論」という刀、真剣を取り扱う時に必要なのは《慈悲》です。相手への思いやりがあればこそ、その「正論」は相手を正しい道へと導きます。全く同じ言葉を発するにしても、話す人の心が違えば、自然とその人ごとに、言葉の意味合いや、相手に伝わるニュアンスも少しずつ違ってくるものです。「言葉」というのは、私達が思っている以上に奥深くて、多様性があります。人のためになるような、人のお役に立てるような《言葉の使い手》になりたいものですね♪
 
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