ほんもんぶつりゅうしゅう
2012年12月11日
ろう者サッカーとの出会い(前編)
第2支庁南海布教区・清聲寺 古島啓太

聴力障害とサッカー(幼稚園〜中学校)

 ありがとうございます。
 私は大阪府守口市に住む摂南大学4回生で小さな頃から耳に障害があり補聴器を着けないと聞こえません。この聴力障害は2歳を過ぎた頃、両親が名前を呼んでも反応しないと心配になり大学病院で精密検査を受けた事で分かりました。診察の結果〝この子は生涯、音を聞き取る事は出来ません〟と淡々と聞かされ両親は大きなショックを受け落ち込んだそうです。
 
 しかし、父は「手を叩く音に反応して振り返っている!聞こえないなんてうそや!必ず聞こえている!」と信念を持ってお題目を唱えたそうです。それを聞いた組内や教養会の多くのご信者さんがお助行に駆け付けて下さったそうです。
 数日後、一般の病院では無理だと聞かされ小児保健センターで再診断を受ける事になりました。先生は、「音に反応するって聞きましたが、お父さん手を叩いてみて下さい!」と、父がパン!と手を打つと僕は音に反応し振り返り、何度確認しても必ず反応したそうです。先生は「お父さん、お母さん!心配要いりませんよ!この子は聞こえています!聴力障害はありますが補聴器をつけて言葉の練習をしましょう!」と言われたそうです。
 
当時お助行をして下さった多くのご信者さんによる御利益と深く感謝しております。その後、聾学校の幼稚部に母と通い、いろんな物の名前を覚えては発音する練習が続きました。そうして幼稚部の2年間が過ぎ小学校は、いずれ生活する為にと両親の判断で聾学校に行かず地元の小学校に通いました。
 
 その小学校は聴力障害者を受け入れるのが初めてだったので入学に至るまで母が何度も足を運び打ち合わせをしてくれました。登校初日は、先生が私を朝礼台に上げ全校生徒に「補聴器を着けていてもみんなと同じようには聞こえません、啓太君を呼ぶ時は後ろからではなく前に回って話しかけて下さい。」と細かく説明をしてくれました。
 
 2歳上の兄も一緒に通っていたので、兄の友達が守るように優しくサポートしてくれました。当時、父がサッカーをやっていたので、ついて行っては兄とボールを蹴っていました。
 それを機会に私たち兄弟も小学校入学の頃から地元の守口FCというクラブに入りました。練習は、週5日のペースでしたが監督やコーチの話が分かりにくく、兄が横で見ていて説明してくれました。低学年のサッカーは、みんなでボールを追い続け奪い取る鬼ごっこをしているようでしたので毎日が楽しくて、あっと言う間でした。
 
 しかし小学校4年生頃になると監督の
指導などの説明が聞き取れず試合に出してもらえない事が多くなり辛い日々が続きました。同時に兄も小学校卒業を前にサッカークラブを辞めると言いだしたので一緒にやめてしまいました。
 
 暫く家でボールを蹴って遊んでいましたが、やはりサッカーがしたいと思い父に頼んで知り合いの大阪セントラルFCを紹介してもらいました。このチームは若いコーチが顔を見てゆっくり話してくれるので直ぐに入りました。
 
 小学部のジュニアチームではAチームに入り多くの大会で優勝を経験する事が出来ました。このチームは選手のレベルが高く試合に出るための競争も多くて、ついて行くのが大変でした。なかなか自信を持てない自分は、試合前や学校のテスト前などは、御宝前に向かってお題目を唱えていました。
 
 そして中学校進学後も大阪セントラルFCでプレイすることにしました。中学生は更に厳しく他のジュニアチームから続々と集まるメンバーの中、Aチームに選ばれるように必死で練習をしました。その為に耳かけの補聴器は、試合中に外れるのでカナルと言う耳の中に納まる小さな補聴器を買ってもらいました。
 
 雨天の試合は補聴器に水が入ると壊れるので外し完全無音状態でプレイするのですが、チームメートとの意思が通じなくて大変でした。声が聞こえない分、周りを目で見て確認をしました。
 Aチームは、その後もどんどん強くなり3年生の年に大阪大会関西大会を強敵に勝ち全国クラブユース選手権(アディダスカップ)にガンバ大阪やセレッソ大阪などJリーグチームと共に出場しました。
 この大会の予選リーグは激戦でしたが何とか勝ち進みました。しかし決勝トーナメント初戦で横浜マリノスの下部チームに負け1回戦で敗退してしまいました。悔しかったですがJFA日本代表が合宿したJビレッジで全国の強豪チームを相手に貴重な経験を積めたことは大きな自信に繋がりました。
 
 

スピーチコンテストに出場 

 中学在学中に大好きなサッカーをテーマにスピーチコンテストに参加しました。そしてクラスの代表、学年の代表、学校の代表へと選ばれ地元の市が主催する学生スピーチコンテストに出場する事になりました。
 
 会場は、500人近く入れるホールで緊張しながら話した事を覚えています。20人の参加者の中で聴力障害者は私だけでしたが、嬉しい事に審査委員特別賞を頂きました。
 
 幼少時からの言葉の練習と両親からの厳しい発音の指導によって周りの人が聞き取れる口話が可能になりました。何よりも自宅に一人でいる時に大きな声で信行手帳を読んだりお題目を〝なむみょうほうれんげきょう〟と口形を意識してお唱えさせていただいたお陰だと思っています。 
 
 

障害者サークルとの出会い(高校〜大学)

 中学校を卒業後、地元の大阪工業大学高等学校に進学、同校のサッカー部に入部しました。
(この高校は後に常翔学園と改名されます)この高校にも兄が通っていたので大変心強かったです。
 
 兄は小学校卒業後、中学にサッカー部が無かったので1・2年はバスケットをやっていましたが、3年生の時にサッカー部が出来たので復活していました。
 
 話が前後しますが、中学のサッカー部の顧問が私の担任として3年間サポートして下さったのです。大きな声の先生で話しかける時も口を見せてゆっくり話してくれるので大変分かりやすく助かりました。
 
 兄は2年のブランクがありまし
たが高校入学時にサッカー部に入ったので、ここでもサッカー部の先輩や同期のメンバーがサポートをしてくれました。入部から二年の夏ごろまではBチームでプレーしていましたが、夏の大会で頑張りが認められAチームに上がることが出来ました。
 
 そして3年の全国高校サッカー選手権大会大阪大会では、過去の成績がベスト16だったところを準々決勝まで勝ち進みましたが、強豪近大付属高校を相手に延長戦まで持ち込みましたが0—1で負けてしまいました。結果大阪大会3位と素晴らしい成績を残す事が出来ました。
 
 小学校から高校まで続けて来たサッカーですが単なるスポーツだけではなく、耳の障害を乗り越える為に様々な試練を与えてくれました。またサッカーをやっていたからこそ出会えた素晴らしい仲間と指導者の方々そして先導するかのように僕が向かう道で兄が待ってくれていた事。
 
 これら全て、ご宝前のお導きであると確信しております。小さな頃から両親に連れられ、見よう見まねでご宝前に向いお題目を唱えてきましたが、子供でも1人の信者としてご宝前のご加護を頂いて今日に至っていると思います。
 
 さて、いよいよ高校サッカーも引退し進学です。そこで高校と同じ系列の摂南大学の経営学部に進学しました。大学では、サッカーを辞めようと決め、社会に出る為にいろいろな人に出会いたいとアルバイトを始めました。今まで沢山の人に助けてもらったので今度は自分が何かを返したいと考えました。よくご法門でお聞きしたお住職の言葉〝施す〟〝与える〟を実践しようと思っていました。
 
 そしてあるサークルに出会いました。
同じ聴力障害をもつ学生が自分の持っている悩みを話し合い勇気づけ合い、一人ぼっちの学生を無くそうというテーマを掲げ全国に組織する〝ろう学生懇談会〟というサークルです。 
 
 僕は、今までなかった同じ聴力障害をもつ仲間といろいろな考えを話し合う機会をいただきました。今までは口話(声を出して話す)と読話(相手の口もとや表情で読み取る)だけで生活してきたので手話が使えませんでしたが学生懇談会と出会ってはじめて使えるようになりました。
 
 このサークルでは毎年夏に全国のろう学生が集まる〝夏の集い〟の会場を全国各地に移して行っています。過去の健聴者とのサッカーの経験が自信となりスタッフとして準備から積極的に参加し多くの学生と出会い交流する事が出来ました。
 
 サッカーも一度は辞めると決めていましたが高校3年のチームメートが大阪サッカー協会社会人リーグにチームを作って登録したいと誘いを受けました。こちらは学校のクラブとは違い空いている時間を利用して参加出来るので参加しました。
 
 初めての登録だったので最下位4部リーグからのスタートでした。殆どのチームは成人ですが、我々は高校サッカーのOBチームです。言わば現役高校生が社会人チームと対戦するので負ける事なく毎年リーグ優勝し大学三年間で2部リーグまで昇格しました。
 
 しかし今年は、メンバーの大半が大学4回生で就職活動と卒業に向けて必死です。自分も例外ではありませんが大学3年間地道に頑張って来ましたので必要な単位は取得し、卒業論文提出を残すだけと有難い環境で4回生を迎えました……