ほんもんぶつりゅうしゅう
2019年05月01日
信心改良 百本口唱でお計らい 護持御本尊の拝受 実家のお教化成就 第5支庁 本門寺 長谷川美紀
ありがとうございます。東京常盤布教区・土浦本門寺所属の長谷川美紀と申します。
ご利益談をご披露させていただく機会をいただき、誠にありがとうございます。本日は、私の法灯相続に関するお話をさせていただきます。
私は平成2年に本門寺のご信者にご信心を勧められ、入信した初代の信者です。
恥ずかしい話ですが、私は1昨年まで、長い間懈怠をしていました。お寺へお参詣せず、自宅でもお天目のお給仕をさせていただく程度で、お看経もほんの少ししかさせていただきませんでした。当然のことながら体調を崩し、経済的にも困窮しました。
そんな私が改良させていただこうと思ったキッカケは、婦人会のお助行を受けたことです。このお助行は、教養会ごとに毎月1席、当番制で会員さんの自宅で行われているものですが、懈怠していてもお助行に抵抗はなかったので、当番の打診を受けた時は軽い気持ちでお受けしました。お助行当日は、御講師と婦人会の会員さんが数名来てくださいました。
お助行から1ヵ月ほど過ぎた頃、大変ショックなことがありました。2人の息子達も自立して1人暮らしをしておりましたが、最も信頼していた人との連絡が途絶え、急に「自分は独りだ」と感じたのです。以前からパニック障害や不眠で通院していた私にとって、信頼していた人との連絡が途絶えたことは精神的にショックが大きく、日常生活が破綻するほどの大事件でした。
毎日パニック発作を繰り返し、精神的なこと以外にも持病があったため、肉体的にも限界でした。このような状態になって「これではいけない。お寺へお参詣しなければ。これは懈怠していることへのお叱りだ」とやっと気が付きました。
御住職の奥様と連絡を取ると、家まで車で迎えに来て私をお寺へ連れて行ってくださり、お参詣させていただくことができました。お寺で懈怠のお懺悔を言上していただき、改良させていただくことを御宝前へお誓いしました。
改良をさせていただくため、まず始めたのは自宅でのお看経です。当時は体調不良が続き、起きているより寝込んでいる時間の方が長い生活でしたが、とにかく10分、30分、1時間と、細切れながらもお看経の時間を伸ばしていきました。
通院日には病院の待合室で、小声ですがずっと御題目をお唱えしました。その間にも、色々と悪いことが起きました。「まだまだお看経が足りない。それなら百本口唱をさせていただこう」と決定し自宅でではありますが、百本口唱を始めました。
百本口唱をさせていただいている間、「今まで懈怠していたせいで、実家の教化や息子たちの法灯相続の機会を逃してしまった」という後悔の念と「それでも御法様は私を見捨てずにお叱りくださり、改良の機会をくださった」という思いが入り乱れて、自然と涙が流れ、泣きながらお看経をさせていただきました。
百本口唱が進むにつれ「これが終わったら絶対に何かが変わる」という確信が不思議と起きました。そして、99本目が終わろうとした時「護持御本尊」という言葉が頭をよぎりました。「これか!」と思わず声が出そうになりましたが、グッとこらえて残りの1本もさせていただいて、百本口唱を終えました。
後日、御住職に「護持御本尊をお迎えしたい」と相談させていただきました。相談の結果、冥加料の点から5年後を目安にお迎えできるようにすることが決まりました。生活費ですらままならない状況でしたので、今すぐお迎えするのは無理でした。
しかし、護持御本尊をお迎えさせていただくことを決定したからには、貯金を始めなければなりません。3度の食事を2度にするなど、切り詰められるところを切り詰め、お迎え費用の積み立てを始めました。ご祈願にも「護持御本尊お迎え成就」を加えて、またお看経を始めました。
年が明けて平成30年1月のことです。本門寺のご信者、佐々木利榮さんが帰寂されました。佐々木さんは「本門寺のドン」と言われるほど、お参詣もお看経も本門寺で1番のご信者でした。私も親しくしていただきましたが、佐々木さんのお宅で予定されているお助行にお参詣することを約束した矢先に帰寂されてしまいました。
佐々木さんは生涯独身で、身寄りもありませんでした。しかし、ご自分の死後は全てを御住職にお任せする旨が記された公的な遺書と書類を残されていて、それに従って葬儀等が執り行われました。
佐々木さんの葬儀を終えて数日が経ったころ、御住職より「佐々木さんの護持御本尊と御尊像を相続するように」とのお話をいただきました。懈怠を改良して護持御本尊をお迎えする決定をしてから1年も経っていないのに、まさか私にお話をいただけるとは思ってもいませんでした。
まして、佐々木さんが毎日何時間も御題目をお上げしていた御本尊と御尊像です。「私に護持できるのか」と大変戸惑いました。しかし「頑張ってお看経をさせていただいて護持したら、佐々木さんも喜ぶでしょう」という御住職のお言葉をいただき、護持させていただくことを決定しました。その結果、護持御本尊のお迎えを成就し、初代の私が法灯を相続させていただく側になるという、全く考えもしなかったご利益をいただきました。
話は前後しますが、自宅でさせていただいた百本口唱のあと、私には護持御本尊お迎えの他にもご祈願がありました。それは平成29年度の高祖会、本門寺歴代御住職の御年回法要に何が何でもご奉公をさせていただきたい、というご祈願です。ご有志も、体を使ってのご奉公も人並みにはとてもできない私ですが、少しでも多く、何かできればと思っておりました。
そこで、懈怠している間に滞っていた実家のお教化ができればと考え、「祖母のお墓を本門寺の納骨堂へ移し、私に護らせて欲しい」と実家に話を持ちかけました。それを基に「ご信心の話ができたらいいな」と思いました。
すると、しばらくして母から「平成30年の祥月命日に合わせて納骨堂へ移したい。祖母の遺骨を移すだけでなく、父が『自分が死んだ後もお世話になりたい』と言っている」との電話が来たのです。飛び上がるほどの嬉しさを抑えながら、御礼のお看経をさせていただきました。
しかし、平成30年になってからでは高祖会に間に合わないと思い「祖母の遺骨を移す前に、1度お寺へ来てみない?」と声をかけてみました。これも快諾してもらえて無事にお寺にお参詣し、高祖会の前にお教化になりました。たった2回の会話でお教化ができるなんて、これもご利益としか言いようがありません。
しかし、喜んだのもつかの間でした。お教化した5日後に父が急逝してしまい、父の高祖会お参詣は幻となってしまいました。1度もご奉公をせずに亡くなった父でしたが、御住職が戒名をつけてくださり、お寺の納骨堂への納骨もさせていただくことができました。
残った母はご信心を理解しようとせず、義納金や奉納金は納めるものの檀家の感覚でしかなく、お参詣ができませんでした。その状態がしばらく続き、育成の難しさを感じながら、平成30年10月に父の一周忌を迎えました。
一周忌のご回向では、御住職が「駅まで迎えに行くから、11月の御会式にお参詣しましょう」と母にお折伏をしてくださいました。「そういわれても遠くて行けない」といつものように母は言うだろうと思っていましたが、後日「当日は電車で行くからよろしく」と連絡がありました。
御住職のお折伏のおかげで、母は昨年11月の高祖会にお参詣し、御会式ごとに行われる新入信徒の紹介に出席できました。そして、本門寺のご信者皆さんにも母を紹介できました。父のご回向では周りの目を気にしてお看経をしなかった母が、御会式ではちゃんと膝を叩いてお看経しているのを見て、大変嬉しく思いました。
実家のお教化は成就しましたが、2人の息子への法灯相続ができておりません。しかし、昨年のお盆回向に下の息子がお参詣した際、御講師が直接お折伏してくださいました。
息子の生活、仕事の状態と、ご信心に対してどう思っているのかを話す機会を設けてくださり、それを聞いた御講師が、「今の状況から抜け出すためにも、御本尊を奉安して月1回のお助行を受ければ必ず良くなる。まずは1年間、ご信心に人生を預けてみないか?」と強く勧めてくださいました。
私の懈怠のためにご信心から離れてしまった息子は、ご信心のありがたさを分かっておりません。しかし、私の育成不行届きのお懺悔、自宅での法灯相続の誓願言上など、御講師に指導していただきながら、息子の法灯相続成就を目指して励んでいる最中です。
今思えば、あのとき懈怠を改良させていただかなかったら、父と佐々木利榮さんの帰寂の際には何もできず、後悔だけが残ったと思います。息子たちにもご信心を伝えないままになっていたかもしれません。もっと早く改良させていただけばよかったと悔やむところですが、今からでも遅くはないと自分に言い聞かせ、これからも信心増進、お教化に努めさせていただきます。
ご清聴いただき、誠にありがとうございます。