2026年07月04日
佛立宗の古刹を訪ねて ~番外編







佛立寺の寺号公称以後と佛立寺第3世住職についてご紹介します。
佛立寺第3世住職
先月号で追分・大津方面の衰退について紹介しました。明治12年(1879)寺号公称し、同16年には桃井日高師から日聞上人がお住職になられて佛立講の手に戻った佛立寺でありましたが、明治30年頃には佛立寺の寺号は自然消滅していたのでした。
この佛立寺の寺号を再興されたのは佛立寺第3世住職、のちの第5世講有日風上人でした。上人は役所からの一枚の配布物を頼りに寺号再興されたのですが、これには日蓮宗八品派(のち本門法華宗)や妙蓮寺本末内での佛立講の置かれた状況が関係していました。
開導聖人のご在世は勿論、ご遷化以後は猶更、教義上や折伏の姿勢の違いから、本山や本宗からの圧迫は強まり、明治24年(1891)2月、現喜(日聞上人)・現随(日教上人)は福井敦賀に隠居していた名義上の師・妙蓮寺元貫主日成師に呼び出され「十界勧請の御本尊並びに高祖のご花押を拝書してはならん。不承知なら離弟じゃ」と迫られ、開導聖人から御本尊拝写の許しを得たお弟子としての存在意義を否定されたのでした。
この佛立講存立の危機はやがて佛立講撲滅運動へと発展して行きました。
この時お弟子として覇を競うことを嫌い幼少より学徒としてご奉公されて来た小野山現立(日風上人)は明治25年4月、出家得度して日聞上人の手足となってご奉公することを誓われたのでした。
福井座事件
そんな日風上人の最初のご奉公は、明治24年(1891)10月28日、岐阜県に発生した美濃大地震の被災地でのご奉公でした。仮道場を拠点に六年間でご弘通も進展しホッと一息つかれた頃、明治30年6月、「福井座事件」が発生しました。
妙蓮寺檀徒で、もと僧籍も有し、後には京都市議や衆議院議員にもなった江羅直三郎(春隆)という人があり、それまでは行政的な面からの無理難題や無視、制度上からの圧力であったものが、彼は「八品派改革建議書」を作り、仲間を組織し、大衆を煽動して佛立講の壊滅を試みたのでした。
京都新京極の芝居小屋であった福井座は政談演説会など政治的な催しの会場にもなっていました。江羅氏は東西屋(チンドン屋)に佛立講の重役の住む町々を回らせ、広目(ひろめ)札(ふだ)を撒いて千人ともいう聴衆を集め、屈強の百数十人も雇い武器にする丸形の椅子に座らせ、襲撃に備えつつ演説会を開いたのでした。
これを知った日風上人の実兄・小野山新平氏は日聞上人のご出張中を確かめ、集まったご信者を制し、1人で福井座に殴り込むことを決意されました。しかし、この殴り込みは殴り込みではなく、実は相手に自分を殴らせ、あるいは死ぬことがあっても死ぬことで佛立講を生かそうとの決意でした。そして、その兄の胸中を知る日風上人も子供時代からの剣術で兄を無駄死にさせまいと福井座に飛び込まれたのでした。
この日聞上人や日随上人を擯斥し僧籍を剥奪するばかりか、ご弘通の拠点である佛立講の道場を閉鎖に追い込み、佛立講の息の根を止めようとする騒動は、宥清寺の本寺である妙蓮寺や八品派内は勿論、佛立講内にも大きな波紋を呼びました。
お立場上からも隠忍自重を貫いて来られた日聞上人も窮地に立たされることになりましたが、新平氏の信心は佛天に届き、政治的手段で自説を通そうとする運動はくじかれ、大教院という八品派の東京の本部をも巻き込み、四大本山の協議を余儀なくさせた問題も沼津光長寺の日光上人という味方を得て、妙蓮寺は日聞・日随両上人に対し、謝罪の意味を含んで両師を能化に招待することで一件落着したのでした。
事件後の日風上人
この福井座事件により「戦には城、ご弘通には道場」、「僧籍を具えた教師が必要じゃ」との教訓を得た日風上人は、ご弘通の根拠地たる道場の確保に力を入れられることになったのでした。
その初めが、大津法難の時に「お前は法華堂の留守居じゃ」と開導聖人のご命令をいただいた佛立寺の寺号再興でありました。日聞上人は日風上人とも諮り、日風上人(小野山現立)を福井座事件でも世話になった雑賀日秀師に「弟子譲書」を提出して師僧替えをし、住職資格に必要な「教師補」という僧階も取得して住職を増やし、佛立寺という佛立講の弘通拠点を確保し、開導聖人のお徳を顕彰されたのでした。