ほんもんぶつりゅうしゅう
2023年01月01日
5支・常住寺 創建80周年の歴史を振り返る(つづき)
戦後に残ったご信者はわずか30戸ほど。そこから復興と足並みを揃えてご弘通ご奉公が展開され、3年後の昭和23年には佛立第4世講有日教上人御37回忌報恩教化500戸を成就。翌昭和24年には佛立第8世講有・乗泉寺中興開基日歓上人御7回忌報恩教化680戸を成就し、第5教区(支庁)第1位の表彰を受けました。
昭和27年、宇都宮常照寺先住日陽上人がご遷化。翌昭和28年、日本に主権が戻った年、日泰上人は常照寺の後任住職に就任。常住寺との兼務が12年続きました。兼務中には、新本堂建立の発願がなされて間もない常照寺内で次々と末寺を建立されました。
昭和28年、兼任住職就任のその年に桐生常薫寺を建立。昭和30年に足利常行寺を建立、昭和34年に館林常信寺を建立、昭和37年には栃木常法寺建立を果たされ、翌昭和38年には常照寺の現在の本堂も竣工となりました。またその間に常住寺本堂を建立され、昭和32年には現在の本堂が完成したのであります。
乗泉寺時代には、故・南泉応師方々と共に御本尊を背負って南伊豆のご奉公に赴かれ、一度行ったら全ての御本尊を奉安教化するまでは帰らないという動きでご弘通をなさっていたと言います。また、乗泉寺内では現在の執事長にあたるお役を12年ほど勤められ、第5教区長(支庁長)を2期お勤めになられました。
前後いたしますが、大奥様とのご縁は8世日歓上人ご内室・口唱院様、15世日晨上人ご内室・清泉院様より(当時の)石関随法師に嫁ぐことをお勧めいただいたのがきっかけだったと言います。故・石関民子大奥様は当時、一信者でしたが、女学校時代から毎朝乗泉寺に開門参詣を欠かさず、子どものころからお小遣いを貯めてご有志させていただくのが何よりも楽しみだったといいます。お話をお聞きした時は、こういう思いや行いの積み重ねは、やはり更なる功徳を積める役割を得るものだと感じた次第です。
昭和40年代、寺号公称から20年が過ぎたころ、お弟子方々が次々と結婚され、子どもが生まれ、常住寺内は華々しく賑やかな時代でした。
常住寺の寺族は千鳥会と申します。10名ほどの寺族が、毎日心を込めて寺内ご奉公にあたりました。規律ある集団生活は充実し、恩師のお側でお仕えする毎日は、自由はなかったかも知れませんが安心の境地で過ごすことができていたと、皆が当時のことを語ります。
それぞれが自分に与えられた役割があり、それを全うされていました。そこには、恩師から必要とされる喜びと安心があり、お叱りをいただく毎日であっても改良を心がける気力に満ちていたように思われます。
小僧も、師父が恩師にお仕えするお姿を見て育ちました。ご弘通もお給仕も、また次世代の育成も、私事を捨てなければ成就しないのだと、空気の教育を受けたものと感得いたしております。
権大僧正日泰上人のお弟子は12師、得度子は20師を数えます。当時の乗泉寺本末内で「今日朗」と呼ばれたほど、お給仕第一の御導師であり、弘通の道場たる寺院を4ヵ寺寺号公称せしめ、新本堂を6棟建立され、お弟子を育成され、わずか30戸からスタートした常住寺が1200戸の信徒を数えるまでご弘通発展せしめた恩師の御徳にかなうはずもありませんが、恩師に近づこうと想いを起こしてご奉公に精進させていただかなくては申し訳ないことだと心得てご奉公させていただく所存でございます。
今回の御会式は、常住寺創建80周年と恩師のご年回報恩言上を併修していただきましたが、もう1つ、乗泉寺御導師より、中長期の常住寺新本堂建立の誓願言上をしていただきました。次世代の弘通を担うお教務、お役中、仲間づくりを進め弘通の道場たる寺院建立を発願して、恩師のお背中を思い出しながら、教講一同、異体同心の和を深めて、気張ってご奉公に励んでまいりたいと存じます。