2026年04月01日
由緒寺院 最初道場 佛立寺⑦ 法難以後の大津佛立講~寺号公称へ
 佛立新聞3月号では大津法難の現場や結末について紹介しました。今月は法難以後の大津佛立講についてご紹介します。
20、法難直後の大津講内
 入牢から6日目の8月4日。釈放された開導聖人は「京都府御免(ごめん)沙門」になったと喜ばれましたが、寺住みの上、再出家をとの裁可に本能寺に入り、淡路・隆泉寺住職を経て慶応3年に本能寺貫主となっていた桃井日憙師を便宜上(べんぎじょう)の師として再出家されたのでした。
講内ではお弟子信者方が各々次の言上をして、法難決着の報恩口唱のご法味が捧げられました。
「今般、当講開発(かいほつ)の師、清風信行強盛により、諸人に怨嫉(おんしつ)をうけ邪法(じゃほう)悪人(あくにん)といはれ、召捕(めしと)られ牢に入れられ、御吟味(ごぎんみ)の上、正法紛(まぎ)れなきにより、御赦免を蒙り京都御府に於て出家御免に相成(あいな)り、宗内柦家(だんか)講中等に御法義を談じて子細(しさい)これなき旨、御当山より御出願下され、御役所御聞済(おやくしょおききずみ)に相成候(あいなりそうろう)事(こと)、当講の面目(めんもく)、豈(あ)にこれにしくものあらんや、是(これ)によりての為(ため)、口唱し奉る。
御題目一万部
華洛(からく)本門佛立講中 
敬白(けいはく)
 慶応四年八月廿五日
南無本門法華経 三宝諸天善神」(扇全2巻429頁)
 法難は法華経の行者の証(あかし)。開導聖人は法華経の行者となられたと小躍りして喜び、共に入牢した浅井安兵衛・小島庄兵衛の両氏は勿論、大津講中はこの日の口唱に力を籠め、涙ながらの5時間に心を潤したことでしょう。
21、法難以後の大津講中
 やがて、開導聖人は、明治2年1月10日、妙蓮寺の貫主日成師から旧宥清寺を学問所として永代貸借し、新たに京都で10日、大阪で10日、大津で10日のご奉公がスタートしましたが、ある日、琵琶湖畔での御講に際し、開導聖人は前年に創設された大阪玉江組の秦新蔵氏に手紙を届けられています。
『枩風(しょうふう)余韻(よいん)』には、
「去る廿四日大津へ参り其夜より御講うちつゞき、山行(さんこう)するいとまもなくこれが御法の山行に候也。廿六日京(きょう)町(まち)中善と申(もうす)家の三階にて湖水を見晴らし申候。いかにも絶景に候ひし。けさ小島の倅(せがれ)久吉と申(もうす)か(が)これを持来りて、ことしは山行をなさるいとまもなく候へば熊々(わざわざ)これを掘(ほり)とり候とてくれられ候まゝ机の前におきてゆるゆるながめ、大阪の人にこのまゝおくりたればと存じ候。山のけしきもおもひやられてと申候所、中には先生あまりおもしろくもなくソレハ駄(だ)ちん(賃)だを(倒)し(し)に候と申(もうす)もおかしけれど、おもひ立しこと、あとへもど(戻)しか(難)たく、よ(縦)しやかるゝ(枯るる)ともそこなへ(損なえ)候ともよし(良し)よし(良し)と申(もうし)て秋(しゅう)香(こう)土木(どぼく)草(ぐさ)ながら進上(しんじょう)いたし候。夜つゆ(露)にあて候へば追々おおきくなり、又々は(生)ゑ(え)申候、御家内(ごかない)一統へ御見せ被下候(くだされそうろう)、最早夕暮、今夜は俵(たわら)や(屋)御講、御(おん)講中(こうぢゅう)御一統(ごいっとう)へよろしくおつた(伝)へ(え)被下候」
(扇全3巻345~6頁 所収)
とあり、琵琶湖畔の3階から見る湖水の景色と小島久吉(ひさきち)の松茸の篭に画を添えて送られています。
22、大津佛立寺寺号公称
 明治4年、開導聖人はお栄様と結婚され、お弟子方も増える中、怨嫉も二度三度と法難に見舞われましたが、明治12年、大津法華堂は大津佛立寺として寺号公称を許されました。
この間の経緯は不詳ですが、開導聖人の喜び状には、
「布施はこれ菩提の糧(かて)、み(身)にそひて行くものこれなり、化(け)の功おのれに帰すと云々、大津追分の畑の中に法華堂を建立し、西隣に今大路屋敷出来せし事など、そのかみをおもひいづるに、不思議申すばかりなし。又大燈籠成就せし事など、行末(ゆくすえ)大寺とならん前表(ぜんぴょう)か、これ等の為に身命財を打ち忘れて、尽力せし人の今世になきも、本土より護念せらるゝならん。此處に御寺号は、いつの世にかとなげき之思ひしに、小野山勘兵衛の誓願、今日成就して、清風が撰みおきしまゝに、佛立寺と御指令になりしことなど、佛祖御冥加、弟子講中の悦び御奉公には牢に入られ、處をおはれ等の、怨嫉今にやまず、さりながら屋根漏(もれ)、壁おち草ふかく参詣希(まれ)なる宥清寺も、今ノ繁栄、修学所も成就、一宇建立の宿願もめでたく、弥(いよいよ)御本意に叶ひたる佛立講佛立寺なるべし。造営の手伝ひのしるし迄に金百圓也、幷長松栄女より金五拾圓也納め奉候也。
明治己卯十一月廿四日
  佛立開導長松清風花押」
とあります。開導聖人とお栄様のこの御有志が、昭和2年の佛立寺新本堂建立に役立ったということです。(文責・小野山淳堂)