2026年06月01日
由緒寺院 最初道場 佛立寺⑨ 佛立講の衰退と開導聖人のお折伏
今月は佛立寺の寺号公称以後の歴代住職についてご紹介します。
27、佛立寺住職問題2
先月号で、御牧現喜・日聞上人が、明治13年(1880)2月、謗法の邪師・本能寺の貫主桃井日高師ではなくご自身が住職としてご奉公したいと直願されたことを紹介しました。
その後、日聞上人が明治30年1月にめられた佛立寺永代過去帳によると、日聞上人は明治16年6月14日付で佛立寺住職を「兼務」されたと記されてあります。
しかし、開導聖人が「当山諸事へし候、候」
(扇全8巻175頁)との証文を与えて日聞上人を宥清寺の住職とされたのは明治16年11月26日で、佛立寺住職の方が宥清寺住職より5ヵ月早いことになります。
経緯は不明ですが日聞上人が佛立寺の第2世に歴世されたことは間違いなく、日聞上人の直願が成就したことになりますが、その後の佛立寺のご弘通には陰りが見え始めたのでした。
28、追分・大谷の衰退
佛立寺衰退の原因は富国強兵を目指す明治政府の鉄道政策にありました。
明治10年、神戸~京都間、同12年、京都~大谷間に鉄道が開通。翌13年、逢坂山トンネルが開通すると大谷追分の街道筋は急速にさびれて行きました。これまで逢坂山をあえぎながら登り茶屋で一服する旅人、大津絵を買い求めていた人も激減、そろばん屋や縫い針屋も同様でした。
そろばん業者が密集していた大谷一里塚付近では2度、3度と強制的な立退きにあい、国道1号線の整備、京津電車の敷設により明治末には大津そろばんは完全に消滅し、中大谷の小野山勘兵衛の酒造屋(「」)も立退きにあったと思われます。
29、佛立講の衰退
「初住代」の小山秀達日達上人が遷化されたのは明治20年4月で佛立寺永代過去帳には秀達師は「数年が間」ご苦労されたとありますから、明治12年から明治16年までのご奉公であったのかと思われます。
有名な林甚太郎さんの話は開導聖人の最晩年、明治22年11月1日に旧宥清寺親会場(現・佛立教育専門学校)で勤まった月始総講でのご披露で、佛立寺の寺号公称から10年後のことでした。
開導聖人の御指南には「久シク中絶ノ佛立寺ノ大燈籠ノ常燈ヲ。此ノ甚太郎ハ毎夜トモセリ」
(扇全14巻133頁)とあり、この頃には大津のご奉公は衰退していたものと思われます。
30、日教上人ご在住期
京都の公家・京極子爵の令嬢・京極梅子さまと結婚されていた御牧現随日教上人は、明治21年、開導聖人ご晩年のご衰弱に、東京のご弘通を差し置いてご家族で佛立寺に入り開導聖人にお給仕の誠を尽くされ、開導聖人ご遷化に先立つ明治23年6月3日には、ご自身の父君・3代目御牧卯兵衛氏が56歳で帰寂、翌月、開導聖人のご入滅に会われています。
明治28年10月、日教上人はご家族で東京に移られるまでの7年間、佛立寺を護られましたが、佛立寺の永代過去帳には窮乏の中を永年ご苦労されたとあり、私の祖母の話では、豆腐屋が掛け売りを嫌って佛立寺の前を「リン」を押さえて走ったと聞いています。
31、開導聖人のお折伏
開導聖人は大津の衰退ぶりを折伏され、佛立寺の先師位牌堂には日風上人が拝写された「御遺言」の扁額が掛っています。
「上行所伝の御題目、末法流布の大法、京都ニ日夜ニ大利益顕れさせ給ひて、帰入の人々其数相増こと、佛の親宣感涙おさへがたし、弘るべき大法といひ、時と云ひ、機といひ、国といひ、相應せるに、弘まらざれば、頭とる信者の上に、其のいわれなくんばあらず、今一新して、佛祖の御本意にもとづかざれば、弥悪事出来すべし、あやまちをしりて改めざれば、此事申ざるは、清風のあやまり也、もし守らざれば、誰のあやまちぞや、弘通のさまたげになりて、謗法のあざけりをうくるは、両祖の御衣の袖に御涙をかけさしむの大不孝となること、早々御勘考なさるべく候也
明治戊寅三月下浣 当講開導清風 大津御講元中」
とあります(「」は明治11年、「」―明治23年のお筆違いか)。
当時の大津講元に当てられたお折伏ではありますが、日風上人は大津講中へ宛てられたお折伏として、時代の趨勢に甘んじず、ご法義に照らし自らを厳しく反省して信行の誠を尽くせとのご教誡とされたのでした。(つづく)
(文責・小野山淳堂)