ほんもんぶつりゅうしゅう
2013年02月27日
門祖日隆聖人550回御遠諱 御正当法要、厳修される
【奉修報告】

 去る2月24日、早春の小雪の舞い散るなか、門祖日隆聖人550回御遠諱御正当法要が、本山宥清寺において、講有・山内日開上人奉修導師のもと、厳かに奉修された。全国各寺院・教会の住職・担任、事務局長、宗門要路の役員教講が合わせて400人以上参列し、八品門流の礎を築いた日隆聖人の鴻恩に深い感謝を示したのであった。前日の23日には、佛立会館にて過去3ヵ年に亘る報恩ご奉公の総括等が行われた。
 
〈前日大会〉
 23日の午後2時より、佛立会館にて開催された前日大会では、平成22年から24年の3ヵ年に亘る報恩ご奉公の総括となる弘通懇談会「門祖550報恩ご奉公を振り返る」が催された。
 続いて、来る4月27日から29日に亘り奉修される記念大法要参詣の団参案内が、スライドを交えながら行われ、また今回初めての試みとして、記念大法要の模様をインターネットで全国寺院へライブ配信することが述べられた。
 最後に講尊・梶本日裔上人による「門祖日隆聖人の550回御遠諱から現在、そして未来」と題した特別講演が催され、前日大会は午後5時半に終了した。
 
〈御正当法要〉
 門祖日隆聖人550回御遠諱の御逮夜に当たる2月24日、佛立第25世講有山内日開上人奉修導師のもと、講尊・梶本日裔上人、 同じく小山日誠上人を始め、宗門要路の教講が参列する中、 午前10時よりその第一部〈法要の部〉が奉修された。
 開式に当たり、総本部長の木村日覚宗務総長から式辞が奉告され、その中で佛立宗半世紀の歩みを振り返った。平成22年の住職局長決起大会で立てられた「教務員、正宗徒、助行ご奉公者の増加三誓願」が目標に達成しなかったことを懺悔(さんげ)しつつも、「近年の成果として特筆すべき3つのこと」を述べ、1)新・佛立会館(京都佛立ミュージアム)の開館、2)海外弘通の進展とグローバル化、3)「青少年の一座」開催による若い世代の台頭を「宗門に明るい未来への期待と希望を与えるもの」と語った。
 一座お看経・お焼香と続き、報恩ご奉公の誓願奉告が各支庁の代表者からあり、最後に弘通局長の植田日事師から宗門全体の誓願奉告として三誓願の成就数が奉告され、いずれも不成就となる結果であった。
 その後、門祖日隆聖人讃仰歌の斉唱を挟み、講有山内日開上人の御諭告を戴き、川手日廣宗会議長と谷信一副議長が決意表明、「(日蓮・日隆・日扇)三聖人の御恩徳に対し、私たちは一粒の砂、一滴の水のように弱い。しかし千人寄れば千倍、一万人寄れば一万倍である」と語り、異体同心で「佛立の花」を咲かせ、沢山の世の中の人と触れあって弘通していくと宣言した。
 法要は第二部の住職・局長の部へと移り、植田弘通局長は挨拶で「ガリレオは『宇宙という書物は数学という文字で書かれている』と言いましたが、本門佛立宗の弘通史という書物は『信心』という文字で書かれているのではないでしょうか」と話した。
 その後「門祖550回御遠諱報恩ご奉公の総括と佛立開導日扇聖人ご生誕200年慶讃ご奉公について」と題したスライドが上映され、続いて講有山内日開上人から御法門(法話)を頂戴し、藤本日涌奉修本部長の閉会の辞の後、御正当法要は無事に終了。参詣教講一同は4月の記念大法要に向け、さらには4年後に迫る「佛立開導日扇聖人ご生誕200年」に熱い思いを馳せ、散会したのであった。
 
 

【講有山内日開上人 御諭告】

 ここ洛北の地、本山宥清寺御宝前において、門祖日隆大聖人550回御遠諱の御正当法要が厳粛に営まれるに当たり、参列の全国寺院住職、事務局長、並びに関係役員に諭告します。
 蓮隆扇三祖の示されたご遺誡を守り、久遠本因妙の一大秘法を一器の水を一器に移して、濁悪の末世に現証の光を顕す佛立信心にとりましては、半世紀ごとの三祖御遠諱の節目はその報恩の誠を尽くし、妙法弘通の一大飛躍を遂ぐべき機会であるのは申すまでもありません。宗門史を振り返りましても、近くは高祖七百回御遠諱、開導百遠諱に全宗門人が結束し、大きな成果を手にした記憶は新しいものです。また、半世紀前の門祖五百回御遠諱においても、門祖教学の高揚や役中教育、組織改革や社会教化といった幅広い未来への布石が打たれ、御正当法要の御宝前には一年間で2万8719戸のお教化がお供えされています。
 このたび、その門祖日隆聖人の五百五十回目の御遠諱に巡り合った宗門は、御正当の平成25年を新たな飛躍の節目とすべく、3年間の報恩ご奉公を立ち上げて本年に備えました。今回のテーマに掲げられた「開講200年に向かうための弘通の人づくり」は、宗門の実情を鑑みるに時宜を得た取り組みであったと感じます。
 近年、海外弘通は相当な勢いで進展し、また4回にわたる「青少年の一座」は大いに盛り上がり、昨年は全世界から2000人以上の青少年が本山に参集し、一同に上行所伝の御題目を口唱しました。
 しかし、次代を担う皆さんのご家族や教化子が立派な佛立菩薩に育ち、御講をつとめ、宗徒が大幅に増加しない限り手放しで喜べません。いよいよ門祖への報恩の思いを高め教務員増加にも、なお努力しなくてはなりません。
 記念すべき御正当の年、平成25年はまだ始まったばかりです。今日ご参列の皆さんが深く懺悔し改良を誓い、この3年間取り組んできたご奉公を糧に、必死の思いで「弘通の人づくり」に取り組めば、必ずや近い将来「今日のあるのは門祖日隆聖人550回御遠諱のお陰」と、この平成25年という節目の年を振り返ることができるでしょう。それはもちろん、遠い未来の教講にとっても大きな教訓となるはずです。
 本日の御正当法要が、この1年のご奉公への奮起を促し、来るべき開導聖人のご生誕200年の慶事へと繋がることを期待して、諭告とします。

平成25年2月24日 
本門佛立宗 第25世講有 日開



【講有山内日開上人 御法門】

 門祖日隆聖人は、今を去る549年の昔、尼崎の本興寺で御入滅になられました。お弟子の日学上人が、「日隆聖人第三七日忌法則」というお書きものをお残しになられており、今日に門祖聖人のお人柄、また御入滅のご様子等を拝見させていただくことができるわけでございます。日学上人は、叡山の学徒でございましたが、門祖聖人のご高徳に信伏随従され、叡山を降り、門祖聖人のお弟子として常給仕の御奉公をされました。また、備中岡山と尼崎を往復をしながら、御弘通の御奉公に精進をされた方でございました。当宗の勧請の列祖である、法運中興日忠聖人の兄君にもあたる方で、九歳年長であったとも言われておりますが、門祖聖人がお隠れになりました、寛正五年は日学上人37歳の時でございました。その時に、門祖聖人の「三七日忌法則」をお認めになったわけでございます。まずはその一部を拝見をしたいと思います。

 「終焉(しゅうえん)の尅(とき)を忘れ給はず、席を起(たつ)て東(ひんがし)に向ひ珠を播(く)りて掌(たなごころ)を合せ、本尊を拝して目暫くも捨て給はず。時に給侍(きゅうじ)の沙弥(しゃみ)愕(おどろ)きて蘇香(そこう)を含るに忿怒(ふんぬ)して忽(たちま)ち之を吐き圓寂の御眸(おんひとみ)の底に白眼(びゃくがん)の色を顕し給ひ、掌を開きて手を握り延命の志の愚なるを瞋(いか)り給ふ。」

と、このように記されております。門祖聖人は、御自らの御臨終をお覚りになりまして、やおら身を起こされ、おそらく給仕の弟子が背に手をあてて、お起こし申したと思いますが、東側に奉安をされておる御本尊に向かいまして、常にご所持されておられたお数珠を播り掲げられて、「無始已来謗法罪障消滅…」と言上をあそばし、御本尊に目を据えられて離されなかった…こういうことでございます。この門祖聖人の最後のお姿は、十三問答抄に
 「臨終の夕(ゆうべ)には我身悪人なりと観念して、偏(ひとえ)に経力を憑(たの)み云々」
と記された御指南の御心と姿を一にするわけで、名字即の位に従する、凡夫としての慎ましやかな最期のお姿を拝ませていただけるのであります。給仕をしておりました小僧さんがですね、驚いて蘇香を奉った。蘇香というのはいわば気付け薬のようなもので、当時のことでございますから、何か丸薬のようなものでできていたのでしょう。それを門祖のお口にお運び申し上げたところ、門祖聖人は「忿怒(ふんぬ)して」と、こうございますから、怒りのご様子を表されてプイッとその丸薬を吐き出されてしまった。そうして「延命の志の愚なるを瞋り給ふ」、延命のための操作の愚かなることを、たしなめられたということが、伺えるわけでございます。また、

 「然る後に緇素(しそ)同音に首題を唱へ臨終を待ち奉る。御唇(おんくちびる)暫(しばら)く動いて禅定に入るが如く即ち寂滅に皈(き)し給ふ」

とご入滅のご様子が記されてあります。周辺に侍っておりましたお弟子やご信者方が異口同音に御題目をお唱えさせていただいている。門祖聖人、御自らも唇を暫く動かして、御題目をお唱えされていた。ところが「禅定に入るが如く寂滅に皈し給ふ」と、御臨終をお迎えになったわけです。そのときの様子はどうであったかと申しますと、

 「夾鐘(きょうしょう=二月)中旬の比(ころ)より、霖雨(りんう)森々(しんしん)と下(ふ)り数日青天を見ず。然るに念五の朝、御閉眼(ごへいがん)の刻(とき)、日光雨を分(わ)って赫然(かくぜん)として室内に入り、ヒ髴(ひほつ=ヒは髟の下に非)の尊容を照す」
 
と、日学上人は叙しておられます。寛正五年の二月、おそらく今と同じように寒い日が続いていたのでしょう、中旬のころからずっと雨が降り続いておりまして、お日さまを拝むことができなかった。ところが念五=二十五日の朝、御閉眼のとき、門祖がお目をおつむりになるそのときに、日光が燦然(さんぜん)と輝いてまいりまして、雨雲を分けて照射した。そうして、門祖聖人がお休みになっているお部屋にその陽の光が差し込んでまいり、しばらくお剃刀が当てられていなかったおつむはかなり髪の毛が伸びておったようで、その尊容をお日さまがお照らし申し上げた。侍っていた弟子や信者は不思議の感にとらわれ、神々(こうごう)しい御臨終を迎えられた、その門祖の容(かんばせ)に、ありがたさ、尊厳さを感得をし、胸がいっぱいになったと、記されているのでございます。
 それ以来、今日まで549年が経過し、ここ3年間に亘る報恩の御奉公に気張らせていただきましたけれども、円満成就させることができなかった。誠に申し訳のない次第でございます。そのなかにあっても、誓願を立てた各寺院ごとの成果を見ますと、誓願を成就している寺院もあるわけでございます。どうかお互いは、本日を契機に信心をさらに改良をさせていただいて、次なる目標である開導聖人ご生誕200年の報恩御奉公に向けて、積み残した御奉公を携えて、それに加えて開導聖人にお喜びいただける御奉公をさせていただかなければなりません。このように存ずる次第でございます。

 さて佛立開導日扇聖人お示しの御教歌に
 
 日蓮はものしりでなし信者也
      門祖も祖師の御弟子也けり
  
とございます。お祖師様(日蓮聖人)は開目抄に

 「日蓮は一分の慧解なし」
 
と仰せになっておりまして、名字即の凡夫、無智の信者であられたわけでございます。門祖日隆聖人もお祖師様のご信心を再興正導くだされたお弟子であられました。お互い私ども、現在の佛立教講(教務・信者)は「信」の一字でこれを頂戴をし、素直な弟子・信者として御弘通・教化=人助けの御奉公に励ませていただくことが肝心とお教えくださっているのです。

 門祖聖人は、至徳二年、1385年の10月14日、今の富山県・射水郡(いみずごおり)嶋村の桃井館にご誕生になりました。そうして、先ほど日学上人の三七日忌法則で拝見しましたように、寛正5年、1464年2月25日、聖寿80歳で御入滅を遊ばしたのでございます。御歳12歳のときに、国許遠成寺慶寿院を師として出家得度をされました。18歳の時に、京都の妙本寺に入寺をされ、叔父君にあたる日存、日道の下で本化の教学を研鑽されました。20歳の時には、師匠であった日霽上人がご遷化になり、後を継いだのが公家出身の月明という者でありました。当時の法華宗は中古天台の影響を受けており、この月明も本迹一致の教義をとなえては宗義を乱し、なおかつ叡山に対抗するために、僧兵をたくわえて宗風をも乱しておりました。存道両師と共に門祖聖人は、この月明を折伏いたしましたが、聞き入るわけもなく、逆に門祖に対し怨嫉・迫害を加えることになったわけです。六剣士を送って暗殺をしようとしたことなどが有名ですが、結局は門祖は妙本寺を退山し、諸国を遊学されましたが、31歳の時に本能寺を建立され、お祖師様のご清流、本門八品上行所伝の御題目のご信心を天下に宣明遊ばされたのでございます。
 
 本日の御教歌にお書き添えの御指南を拝見いたしますと、
 
 「現證(げんしょう)には過(すぎ)ず、題目を離れて成佛を求(もとめ)ざれ」
 
とお示しになられており、お祖師様のご信心も、門祖聖人のご信心も、現証弘通〔現証の御利益を顕す布教〕であったわけで、口唱折伏・経力現証ひとすじに、御奉公を進めてきたのが蓮隆扇三祖一轍の佛立宗のご信心でございます。また、門祖の十三問答抄に示された十二の宗名、これを開導聖人は佛立宗のいわば教え、教学の根幹に据えられました。その中でも特に「無智宗」「信心宗」「経力宗」「口唱宗」という、私ども佛立教講が常に御法門で聴聞させていただくそのご信心は、門祖聖人が十三問答抄に明かされたわけでございます。それを取り上げて、日夜拝読をし、御弘通の御奉公に気張らせていただいているのは、佛立宗のみであると、このように申さなければなりません。このことを我々お互いはしっかりと感得させていただいて、門祖聖人のお徳をしっかりと護らせていただく、御弘通の御奉公に励ませていただくことが肝心であります。ここで開導聖人の別の御指南を拝見させていただきます。

 「学者は法を弘めず、御利益をしらず。信者は御利生を顕して御法を弘む。高祖曰、一分の慧解(えげ)なし。(乃至)末代の凡夫唯一念の信心の手を以て法体に疵(きず)を付ず、其のまま頂受する也。故に信者はかしこ也。学者はあほ也」
(鶏鳴暁要辨 下 扇全10巻142頁)
 
とお示しくださっております。我々お互いは名字の信心に従して、しっかり御題目の口唱に励み、御利益を感得してその御利益を人に見せて、御弘通の御奉公に気張らせて頂かなくてはなりません。
 また、蓮隆扇三祖一轍に関する御指南を拝見いたしますと

 「宗祖の御使ひ門祖也、門祖の御使ひ清風なり。外にあることなし。(乃至)門祖は宗門再興也、清風は隆門当門再興也。この御本意を興すものは清風の流類のみ」
 
とございます。お祖師様の御使いは門祖様、門祖様の御使いは清風、私である。そうして、この蓮隆両祖のみ教えを継承して、末世に伝え御弘通をしていくのは、清風の流類、つまり佛立宗のみであると仰せなのです。我々お互いがこのことをしっかりと感得をして御奉公しなければ、お祖師様、門祖様のご正流は途絶えてしまうわけでございます。いよいよ改良の思いをしっかりと自覚させていただいて、今年いっぱいは門祖への報恩の御奉公にさらに精進をし、そうして平成29年に迎える開導聖人のご生誕200年に向けて、報恩の誠を尽くす御奉公の成果をあげることができますように、しっかりと精進させていただくことが大事なのであります。