2026年09月01日
佛立宗の古刹を訪ねて ~番外編 39、千葉鷲山寺時代
日聞上人は明治37年(1906)、本門法華宗の五大本山の1つである千葉県茂原鷲山寺の貫主に就任されました。これは福井座事件以後、日聞上人が本門法華宗や宥清寺の本寺・妙蓮寺に対し、開導聖人已来の折伏的態度を彼らの皮肉に入って改革する方向へと方針転換されたからでした。
そして、日聞上人は同年11月、本門法華宗の管長にも就任され、多忙のために鷲山寺には院代を派遣されていました。しかし、鷲山寺では元貫首以下七十数名が5度に亘って不信任状を東京の大教院に提出しており、彼らにとって佛立講はドル箱でありながら宗義的にも行儀的にも大いに相違があったため怨嫉が起っていたのでした。
この難局に日風上人を懇望する声が上がり、日聞上人・日教上人・日風上人・小野山新平氏が熟談の上、派遣が決定されました。当初、これを辞退されていた日風上人の手元には日教上人からのお手紙が残されています。
明治41年4月の院代就任から足掛け4年。朝は4時起きで朝の出仕。この地方は砂地であったためにご奉公には地下足袋に脚絆、尻はしょりでインバネス(着物用の外套)を着けてお出ましになる。歩いて近くは二里、遠くは八里。風雨の日にはインバネスはびしょ濡れで、着いてすぐ焚火をして衣類を乾かしてから漸くお看経に掛るという状態であったとお伴の三好現題師(日唱上人)が書き残しておられます。
山内では「佛立講退治」という言葉が飛び交っていましたが、100人足らずのご信者は300、700、800と増え開山堂での総講は本堂で営まれるほど盛大になっていきました。
ところが、日聞上人は明治44年5月、鷲山寺貫首職を引かれ妙蓮寺貫首に晋山されましたが、同8月25日には、講有位付嘱状と「異体同心」のご教誡を遺して法寿59歳でご遷化になられ、日風上人も悲しみの中、鷲山寺を断念して大津へ帰山されたのでした。
40、日隨上人講有時代
日聞上人のご遺言状には日隨上人を含め6師のお名前を挙げ、1年毎に交代で講有を勤めよとありました。しかし、この遺言状を保管されていた日教上人は、日隨上人を第3世・終身講有に推され議は決したのでした。ところが、その日教上人も翌年1月17日、法寿54歳でご遷化になり、日隨上人はその法績を賞して第4世講有に加歴されました。
日隨上人は大正9年12月に至るまでの約10年。本支部制のもと地方巡教に勤められ、講内機構の整備、婦人・青年・少年の教養機関の設置の他、開導聖人の遺跡保存会を結成、四箇道場の建営にも尽力され、日風上人はその副講有としてご奉公されました。
また、日風上人は大正5年(1916)、大垣の松寿組(妙法寺)を分組して、5人ほどであった岐阜に福寿組(妙唱寺)を設立し、親会場を建立して中部方面のご弘通に努められました。
同5年は日風上人の還暦の年で、義弟の古谷定次郎氏の求めに「大曼荼羅(おおまんだら)」と呼んでいる大御本尊を認められました。ここにはご自身を「佛立寺3世」と書かれたのを「5世」に改められてあり、開導聖人・日聞上人、自身は佛立寺3世であるのを、日隨上人・日教上人を加歴され自身を5世とされたのでした。
41、神戸方面の弘通
神戸方面では既に神戸佛立寺の寺号が正式に認可されていましたが、大正6年9月、神戸支部(本法寺)が新設され、同8年には元妙蓮寺塔中執事で、日隨上人の附弟となられた河野日榮上人が担任として赴任されました。
日榮上人は当時の事を「当佛立講のことは全くの小僧、随分当初、いひしれぬ思いをいたしましたものです。其の時に当たり、陰となり日向となって自分に何くれと勝手を教え、指導をして、師匠も只ならぬ慈けをかけて下された一恩師が即ち、上人でありました。一つの御名物のようにお頭の低かった上人は、それであって決して恩にも着せさせ給わず、自ら御譲り下され、同輩に対すようの御態度で最後まで御教導下さいました。自分は上人を思ふの時、常に此の一事を胸に浮かべて、其の御恩を勿体なく感じ感泣いたして居りますのであります」と述懐されており、そのお慈悲の深さが偲ばれます。