ほんもんぶつりゅうしゅう
2014年07月01日
〔東日本大震災・東北復興支援〕気仙沼・清護寺団参及び陸前高田慰霊碑供養参詣
第三支庁・中部南布教区三重組寺(伊賀・妙典寺、四日市・本扇寺、津要津寺、伊勢・佛立寺、津・清津寺)と刈谷・信厚寺では、去る五月十〜十二日の二泊三日にかけて、東日本大震災・東北復興支援参詣として、気仙沼・清護寺団参及び陸前高田慰霊碑供養参詣が実施された。

 五月十日、バスで三重を出発した教講参加者二十五名は一路、宮城県気仙沼市へ向かい、翌十一日午前十時三十分より、中部南布教区長・渡辺龍幸師導師の下、清護寺門祖会が奉修された。参詣数は、三重からの団参教講二十五名の他、地元三十五名、仙台・妙法寺、一関・一乗寺からも参詣をいただき、合計六十六名の参詣であった。

 門祖会奉修の後、陸前高田市へ移動し、午後一時より佐々木氏宅と福田氏宅跡地に立てられた二カ所の大塔婆(横浜・妙深寺、相模原・妙源寺、水戸・開運寺が建立)前で、慰霊口唱法要が勤められ、その後、団参者は気仙沼の「お魚いちば」で復興支援の買い物をし、帰路に着いた。

 なお、今回の団参に参加された妙典寺所属・森直(ただし)氏より感想文が寄せられたので、次に掲載させていただく。

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 この度、東北復興支援参詣に参加させていただきました。まず初めに、片道九〇〇キロ以上十四時間のバスの旅も、快晴に恵まれ二十五名全員、元気にツアーを終える事ができました。これも御法様の御計らいと随喜させていただきます。

 大震災から三年と二ヵ月が過ぎ、津波による膨大な瓦礫はほぼ片付けられましたが、新地(さらち)の至る所に残る住居跡の土台、それらを掘り起こし急ピッチで盛土(もりど)の工事が進む風景に、今後の被災者がその盛土の上に家を建て、どう生活を建て直していけばよいのか、その困難さを思い、茫然自失となりました。

 震災直後はテレビで見る悲惨な状況に、少しでも被災した人々の役に立ちたいという感情が広がり「絆」という言葉がキーワードになって、支援物資やボアンティアで溢れ返っていましたが、現在は支援物資もほぼ止まり、ボランティアもほとんど見られません。絆を辞書であたると、「人と人との断ち難い結びつき」とあります。それは被災者とそうでない人との間の言葉としては少し相応しくないように思います。私達はどんな大災害も時がたつと記憶が薄れてしまい、何も無かったかのように普段の生活の中に埋没していきます。即ち震災の記憶の風化が進んでいきます。最愛の家族を亡くした悲しみ、土地を離れざるを得なかった人々の故郷への思い、今後の暮らしや終(つい)の棲家の問題、先の見えない不安やストレスからの鬱や病(やまい)、そして、被災者の高齢化や孤独死等々、問題は山積みし、日増しに大きくなっています。でも結局その悲しみや苦しみは当事者が自ら生きて、乗り越えていく他はないのです。

 では、私達に何ができるでしょうか。被災地支援は我々一般人には限度があり、行政の施策を待たねばなりません。その施策も本当に被災者が望む物ばかりでは無く、今後の安全を考慮しながら元の状態に近づけるだけの工事が多いようです。

 テレビのドキュメンタリーで「まだ娘の遺体も見つからないのに、そこに土砂でかさ上げして、家を建てて住めますか」と悲痛な思いを訴える被災者の言葉に胸を打たれました。即ち、どんな施策や支援も被災者の生きがいや生活を元に戻すことはできません。即ち心への支援をどうするのか、そこで「宗教」がクローズアップされてくるのだと思います。

 本門佛立宗の教え「化他行」のもとに「異体同心」の心で、いつまでも被災者の問題を心に留め、被災者と私達の心のつながり、更には世代を超えた縦の交流を培っていくしかないのです。その手助けをするのが私達の役割ではないでしょうか。

 今般お邪魔した清護寺は高台にあり、直接、津波の被害は無かったようですが、お寺へ登る坂の麓にあった局長さんの家は全て流されました。それでも明るく優しい態度で誠実に私達を迎えて下さった前向きな姿勢、さすが佛立信者と心の強さに感激しました。また、御住職を始めご信者様方の温かいおもてなしに心よりの感謝を申し上げます。

 帰る日の早朝、魚河岸に行ってみました。水揚げされた山のようなマグロやサメを前に漁師さんや水産関係者が活気に満ちた姿で働く様子を見て、復興は着実に進んでいるのだなと少し安堵いたしました。

 その場限りの「絆」ではなく、生涯かけて悲しみを抱(いだ)き生きて行かねばならない方々の思いを心に刻んで、今後の行動を考えていかねばならないと思いながら、帰路に着きました。