2026年05月01日
由緒寺院 最初道場 佛立寺⑧ 寺号公称『御喜び状』の内容と関連事象
今月は、佛立新聞4月号で紹介した寺号公称『御喜び状』の内容と、その関連事象についてご紹介します。
23、寺号公称『御喜び状』
開導聖人は先月紹介した『大津佛立寺公称御喜び状』に、「御寺号はいつの世にかとなげき思ひ侯ひしに」 (扇全6巻155頁)と仰せられてあります。
開導聖人は本門佛立講の本門法華宗内での地位やこれまでの情勢を考え、佛立寺の寺号公称はとても困難、自身の存生中には無理であろうと思い嘆かれていたのです。
しかし、思いもかけず寺号公称を許されたのは、「佛祖御冥加」は勿論、キット「身命財を打ち忘れて尽力せし人の、今、世になきも本土より護念せらるゝならん」と仰せになって、御牧卯兵衛氏やいほ女等、法華堂創建当時からご奉公に尽力し、先に寂光へ帰られた方々が寂光本土から護念されているからに違いないと感謝されると共に、小野山勘兵衛氏がかつて「諸人助けのために」と誓った誓いが、成就したのだと喜ばれたのでした。
24、公称の社会的要因
一方、明治政府は神仏分離令による神道国教化に失敗する中、明治9年(1889)には憲法によって「信教の自由」を保障すると共に、寺社を整理統合し、宗派名や寺号を「公称」する許認可制度を整備して行きました。
これは、平民が苗字を公称することを義務化したのと同じ流れで、本門法華宗の圧迫に抗して、佛立寺がいち早く明治12年10月に寺号公称を果たせたのも、近代国家として身分や名称を整備しようとする明治政府の動きを味方につけた結果であったと考えられます。
25、寺号公称の要件
この寺号公称には、宗教活動が継続的に行われていること、礼拝施設が整っていること、檀家や寄進などで寺院運営ができることに加えて、宗派の本山が認めた僧侶が住職・開基となること、またその寺号を本山が認めていることが条件でした。
その点、佛立寺には法華堂以来の歴史があり、本堂・学問所・庫裏(今大路屋敷)・大燈籠等の施設が整っていましたが、問題は本山から認められた僧侶が住職となるという条件で、佛立講が選んだ住職を本門法華宗が、そのまま認めてくれるかどうかということでした。
26、佛立寺の住職問題
これについて『開百紀念論文集』(昭和31年出版)に所収の「宗門秘史」(中野日裕上人筆)という論文に「大津佛立寺の最初住職」という項があり、寺号公称翌年の明治13年2月、日聞上人が開導聖人宛に出された「願書」が紹介されています。
その冒頭には「大津佛立寺ハ已(すで)ニ本能寺ノ末寺ニシテ邪師日高(にちこう)先ツ(まづ)之(これ)カ(が)住職トシテ、而(しか)シテ小山師ヲ以テ高師ノ弟子トシ永世能山ノ末寺、其住職ヲ以テ該地信徒ノ教導ヲ掌(と)ラシムルノ儀、先師ノ御指南ニ相背クヘ(べ)キニ考ヘ候ニ付(つき)、予(よ)建言仕(つかまつり)候」(同74頁)とあります。
「大津佛立寺の前身の追分法華堂は、もともと本能寺の抱え所・学問所として出発しました。その法華堂・佛立寺は既に昨年(明治12年)、本能寺の末寺として寺号公称され、本能寺貫主である『謗法の邪師・桃井日高』が住職となり、小山秀達師を『日高』の弟子として師匠替えをさせ、永代に亘って佛立寺を本能寺の末寺として、該地(大津)のご信者を教導させることになさいましたが、私(現喜・日聞上人)は、これは先師の御指南・み教えに背くと思われてなりません。ここに私(予)の考えとしてお師匠の開導聖人に申し立て(建言)をさせていただきます」というのがその趣旨です。
この時、日聞上人は満27歳、冒頭から議論を仕掛ける書きぶりです。
そして、小野山勘兵衛氏から「親教尊師(開導聖人)」が、佛立寺がどこの末寺であっても議論するなと仰ったと聞きましたが、これは年寄りの聞き違いではないでしょうか。佛立寺は「大謗法ノ本能寺ノ末寺」ではなく、「親教尊師の助言を
蒙り」、私が大津講内を教導したいと書かれています。
開導聖人はこの「願書」の余白に、「なけかはしきは佛立寺の寺号、これ迄になれ申候講中の功、但し、其(そこ)もとの思ひのまゝ強論をこゝろみられよ」(同76頁)と記されています。
開導聖人はお弟子の建言を撥ねつけず、開導聖人ご自身も本能寺貫主を住職にすることは、佛立寺の寺号やこれまでの大津講中のご奉公を思えば誠に嘆かわしい歯がゆいことであるとして、そなたの思う所を「強論」して一途な思いを貫いてみよと仰せになり、行く末に期待をかけられたのではないでしょうか。
『長松家霊簿』には小山秀達師を「初住代」と呼ばれています。(つづく)
(文責・小野山淳堂)