2026年05月01日
佛立研究所だより お祖師さまの歩かれた道を尋ねて 実際に現地を訪れて感じるそのご苦労


教学部門高祖御遺跡調査ではお祖師さまのお書物やお手紙を拝見し、その現場に実際に足を運ぶ現地調査をさせていただいております。そこでは御妙判の深い理解が得られるだけではなく、お祖師さまのご覧になられたであろう景色・お弟子ご信者の心情の一分が浮かんでくるようです。今回は御遺跡調査の感想文の体裁をとらせていただきます。
「寺泊御書」から見るお祖師さまのご苦労
お祖師さまは「法華経のためにする苦労・法華経のために罰せられることは、最も我が身の罪障消滅になる」そう言い残しておられます。
そこで研究所では、立正大学名誉教授の中尾先生ご同行のもと現地を訪れ、お祖師さまが歩かれたであろう道をたどりながら実際に歩いてみましたが、道が舗装されているはずの道も、山の中に入ると現在ですら鬱蒼と木々が生い茂り、とても歩ける道ではなく引き返した場所が何ヵ所もあります。
「道の間の事心も及ぶことなく、また筆にも及ばず。ただ暗に推し度るべし」(『高祖日蓮大士御妙判集第3巻』137頁)
お祖師さまはこのように「道の間の苦労は言い尽くすことはできないため、想像してください」と述べられていますが、本当に大変な道を歩かれたのだとわかりました。
「佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず其の期を知らず」(『高祖日蓮大士御妙判集第3巻』137頁)
そして佐渡ご流罪のため寺泊に向かわれたお祖師さまはやっと港へ到着しますが、風が強く、いつになれば船が出るのか全くわからないという状況でした。その時をただ静かに待たれたのです。
このような状況でもお祖師さまは「本より存知の上」(『高祖日蓮大士御妙判集第3巻』137頁)と仰せになりました。
なぜでしょうか。
お祖師さまの法華経身読
寺泊御書には「数々見頻出」と示されています。
これは「上行菩薩というお方はご弘通や折伏の反発として迫害を受けて2度流罪される」という法華経のお御経文です。上行菩薩のお生まれ変わりである以上、2回目の流罪になることは承知の上だったということです。
「日蓮頻出たびたび。流罪は二度なり」と示されています。
佐渡御流罪寸前のお祖師さまは、佐渡への2度目の御流罪だったため、お祖師さまにとっては大変喜ばしいことでした。
この困難にも負けない、困難を自ら進むという精神を、鬱蒼とした茂みを歩くと尚更感じます。
その中でお祖師さまは「未来まで流るべし」と仰せになっています。
御題目の信心が未来まで届き、未来の人が救われることを一番に願っておられました。
お祖師さまが命懸けで守ってくださった未来の私たちは一体、どれだけお祖師さまのことを慕っているでしょうか。果たして私たちの思いは、信心は足りているでしょうか。改めてお祖師さまへの報恩の思いを深く問い直される思いがいたしました。
日朗菩薩波待ちの場所
日朗菩薩は私たちが御講席等で言上する勧請文の中に名を連ねるお方です。
お祖師さまが伊豆へ御流罪になった時、日朗菩薩はお祖師さまの乗った船にすがりつきました。しかし、船頭にオールで腕を叩かれて以来、利き手の右腕が生涯不自由となりました。その日朗菩薩は、お祖師さまにお会いしに佐渡島へ船で渡るため、何度も何日も波が静まるのを待っていたという伝承が残っています。その場所からは佐渡島が向こう岸に見え、海の様子がハッキリとわかります。師匠のお祖師さまがおられる佐渡島に向かい、日朗菩薩は何を思われたのでしょうか。そのことを考えると、自然と涙が溢れてきます。
日朗菩薩は8回に渡りお祖師さまの元へ向かわれます。交通手段や身体的な苦労は現代では想像を絶するものだったでしょう。このことを思えば私たちは本堂へ行けば、お祖師さまに簡単にお会いすることができます。このありがたさが、この度の現地調査を通して改めて身に染みてまいりました。
今後も高祖御遺跡調査の報告を重ねてまいります。令和13年にお迎えする「高祖日蓮大士750回御遠諱」に向け、異体同心にてご奉公に励む一助となれば幸甚に存じます。