ほんもんぶつりゅうしゅう
2023年02月01日
9支・高知佛立寺 日厳上人の第23回忌を無事に奉修 文書弘通の先鞭 百万霊会を建議 
昨年11月27日、高知佛立寺(住職・鈴木日樹師)では、高祖日蓮大菩薩御会式に併せて当山第4世日厳上人御23回忌法要を、東大阪浄風寺住職・西村清信師にご唱導いただき無事奉修させていただきました。
当日は奉修御導師のお徳をいただき、雲ひとつない晴天、11月末にもかかわらず最高気温20度を超える中での奉修、遠路東京・大阪にお住まいのご遺族や東大阪浄風寺さまからは赤ちゃんを含む16名もの随伴団参をいただきました。
小池日厳上人は、大正8年6月10日、大分県にてご誕生、幼名を清と命名されました。
11歳の時、慈父を失うという悲しみに暮れる中、母方の祖父・成田道之助氏が大本寺清風寺の学徒としてご奉公に励む姿にふれ、熱心なご信者であった慈母ツネ姉の勧めにより、いつしか少年の心に菩提心が目覚めはじめ小学校卒業と同時に清風寺に入寺。
中学に通う傍(かたわ)ら教務見習の修行を重ね、昭和9年8月1日、日淳上人(後の本宗中興第7世講有)を師僧として、青木良哲師・田中良恒師・田坂良旦師・野崎良修師(佛立第23世日丞上人)とともに得度、僧名を「良淨」と賜りました。
昭和14年、本門法華宗学林を首席で卒業、師匠のお許しを得て乗泉寺に止宿し、立正大学専門部国漢科にて勉学に励まれます。
しかし時恰(あたか)も大東亜戦争(太平洋戦争)の真っ直中、昭和17年9月に繰り上げ卒業、清風寺に戻り責任講師としてご奉公に励むも昭和19年、召集令状が届き東京近衛師団入隊となる。この時、恩師日淳上人は「お前も兵隊にとられるのか」と上人を抱きしめられたと聞き及ぶところです。
その後、上人は無事清風寺にもどり終戦、昭和20年6月7日の大阪大空襲により灰燼に帰した清風寺を吉井清顕師(日涌上人)・山田良諦師(日衆上人)と上人の3師が孤塁をお守りし、焼け跡にバラックの仮本堂が建立されご奉公に奮闘。
昭和21年3月、ブーゲンビル戦線より後の佛立第18世講有日地上人が無事帰還、これより清風寺の寺門復興の機運いよいよ高まり、上人は離散したご信者の連絡と教導のため「清風寺通信」を発刊、ほどなく宗門機関誌「大放光」を創刊し文書弘通の先鞭をつけられました。
以来「佛立聖典」「御法門用語辞典」「佛立開講百年史」「日淳上人伝」「高祖七百回御遠諱総修法要記念誌」等々、上人が編集された出版物は数多くあります。
昭和48年8月31日、当山第3世日深上人が御遷化されるや、日地上人の命により上人は直ちに来高し葬儀の万端を差配され、そのご縁により日地上人は上人を当山第四世に董じることを決断され、以降27年間にわたりご信者の教導と土佐の地のご弘通に邁進されました。
また、昭和51年には当山信徒の長年にわたる願いであった納骨堂を建立、更に信徒内に新本堂建立の議がおこるや、大阪の自宅・土地を売却し、信徒一同に範を示し喜捨・ご有志されました。
一方、宗門にあっては「佛立教学院教論」「講有考試委員会委員」「佛立新聞編集長」「弘通顧問」等々のご奉公を歴任されるとともに、恩師日淳上人の志を継がれ百万霊会回向運動を建議し、これが採択され現在は第8期目のご奉公を宗門挙げて推し進めています。
平成8年、宗門の最高位たる権大僧正に叙任。
平成10年、高知佛立寺住職を勇退、平成12年12月4日化を寂光へとお遷しになられました。
なお、御本葬之儀は上人の心血そそがれた新本堂御遷座式翌日、佛立第23世日丞上人御唱導のもと、有縁の御導師方14師に御出座賜り執行させていただきました。法寿82歳でした。
佛立寺信徒一同いよいよ信心の大改良、上人のご恩にお報いさせていただくべくご奉公に精進させていただく所存です。