2026年08月18日
佛立宗の古刹を訪ねて~番外編 由緒寺院最初道場佛立寺⑪




今月号は佛立講僕滅運動・福井座事件以後、当山3世となられた日風上人のご奉公を紹介します。
三十五、大津佛立寺・奈良本妙寺
先に紹介した通り、福井座事件以後、お寺・法城の重要性を痛感された日風上人は、明治31年(1898)、廃寺同前であった大津佛立寺を役所の配布物を頼りに寺号再興されました。
また、奈良でのご奉公中、子守の娘の歌う「恐や怖ろし本妙寺の狸、昼も出て来て人だます」という手毬唄を聞かれた日風上人は焼け跡に立つ小堂を発見し、報告を受けられた日聞上人は「佛立講が拝借したからには必ず元の本妙寺にして見せる」との約束でこれを借り受け、佛立講の弘通道場とされたのでした。
当時、宥清寺には日聞上人のご統率のもと多くのお弟子がありましたが、妙蓮寺は日聞・日隨・日教上人等の他には僧侶資格を許しませんでした。
そのため、日聞上人は日風上人を本能寺の雑賀日秀師に師匠替えをさせ、本門法華宗内の僧位と住職位を取得させ佛立寺3世住職とされたのでした。
また、奈良本妙寺についても、日風上人は実の兄弟のようであった西村現教師(後の権大僧正日礼上人)を住職に推挙されたので、福井座事件は転憂為福し、日聞・日随両上人の能化入りと、佛立講内に2ヵ寺の寺院と2人の新住職を誕生させる好結果を生んだのでした。
三十六、金沢昌柳寺
さらに、明治32年1月、日聞上人は門祖ゆかりの北陸・金沢へのご弘通を企てられ、日風上人と御牧清伝(伝之助)氏を遣わされました。目当ては創建四百数十年を誇るものの堂宇も庫裏も朽ち果てた昌柳寺の総代中山平太郎家。
土地の者でも外出をせぬ極寒の日。幼少より親孝行で名高かった日風上人は「かかる貴き御法をいただきながら、大切な母の病気を見て平癒を祈らぬとは」と折伏されました。本人も家族も近親も諦めていた中風症は日風上人のご祈願に訳なくご感応を蒙り、平太郎氏は近親縁者を折伏教化。荒れ寺の昌柳寺は佛立講の昌柳寺として蘇り、その長男は得度して現時師となられました。
三十七、神戸佛立寺
明治32年、日風上人の一代略記には「神戸佛立寺寺号公称許可を得るに長松門人水分卯之助信悟と諮り、是をして妙唱組・長要組・教実組を初めとして神戸支部諸組協賛を成し、教実組親会場を佛立寺と許可公称を得て建立す」とあります。日風上人45歳の時でした。
勿論、初代お住職は日聞上人であられましたが、その陰にはこうしたご奉公があったのでした。
三十八、助給庵(現・清風寺)
明治33年6月、大阪事妙支部(後の清風寺)と大阪圓妙支部(後の圓妙寺)に支部名が下付され、支部内は親会場建立に専心していましたが、日風上人はお寺の確保を目指し探索されていました。
探し当てたのが助給庵。妙蓮寺末の無住の荒れ寺で役所の登記も消滅、本寺の西念寺も無住。日聞上人をお住職に届けを出そうとしたものの組寺や取締りが判を押さない。
お金と時間を費やした支部内は日聞上人のご来阪中に重役会を開いて日風上人に諦めてもらおうとしましたが、日風上人は事ならずば兄新平と腹を切ってお詫びすると誓って泣かれたのでした。
しかし、組寺も頑なで、万策尽きたお2人は沼津光長寺の貫主・能受日光師に超法規的な許可を貰いに出向かれました。朝9時から夕方5時まで、座り込みで許可を願う2人に、上人は三度まで「書いてやるわい」と叫ばれ、「今四条金吾。大きなご奉公にはこれ位の弟子檀那がなければ」と満面の笑みで許可を得たのが助給庵(現・清風寺)でした。
後の事妙支部顧問・足立五良吉氏は、「妙蓮寺末寺にして当時住職もなく又檀家もなかりし大仁助給庵、我等が弘通の本拠として我が手に帰する事となりしが、殊に助給庵問題に当り、上人が実兄たりし小野山新平氏と共に終始約1ケ年の長き年月、一意、日聞上人の御命に任せ内外の大難局に当り、事若し成らずば兄弟共に腹切って御宝前と我等に申し開きすべしとて尽されたる其苦心、今到底筆紙に尽す處にあらず」と記されています。
後に日聞上人住職交代の時、日風上人で不思議のない所、自分がと名乗り出られた方があったため、「自分は大津の留守居。大尊師のご命」と辞退して宗門の大徳たる日淳上人を推挙されたのだと祖母より聞いています。