2025年09月01日
佛立研究所だより 祖師の歩まれた道を調査研究 小松原法難の地を実際に訪れて考察①


ありがとうございます。佛立研究所です。
佛立研究所教学部門では、可能な限りお祖師さまが歩まれたであろう道を求め歩き、お祖師さまのお弟子・信徒の動きを含めた当時の感覚なども意識しながら調査を進め、宗門の皆さまにお役に立てる資料が提供できるよう取り組ませていただいております。
その中で今回は「小松原法難」についてお伝えします。
まず小松原法難について基本的に言われていることをお話しすると、お祖師さまが故郷の千葉県へお帰りになり、お父様のお墓参りとお母様の元気なお姿を見ようとされたのですが、家路に着くとちょうどその時、お母様がお亡くなりになられたところでした。
お祖師さまは悲しみに暮れ、御題目を唱えられました。すると、お母様は息を吹き返され、そこから4年間の増益寿命が叶いました。
このことは、
「されば日蓮、悲母をいのりて候しかば、現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり」(『可延定業御書』高祖日蓮大士御妙判集第2巻394頁)
との御妙判からもわかります。この奇跡は当時の千葉県に知れ渡ったようです。
お祖師さまはその頃、花房の蓮華寺というところにおられましたが、その付近を支配していた東條景信や他宗派の僧侶たちは、信者を獲得していくお祖師さまのことを良く思わず、法華経の行者として、お祖師さまはじめ御弟子旦那も恨まれることになりました。
お祖師さまはそれでも怨嫉に負けず、千葉県内の各所に赴いて教えを説いたようで、ついに文永元年11月11日午後5時頃、ご信者の工藤吉隆公に招かれて千葉県天津市へ向かう途中、小松原という場所で東條景信と念仏者等に襲われ、お祖師さまは頭に刀傷を負われ、応戦した鏡忍坊をはじめとするお弟子方と工藤吉隆公は倒れ、お祖師さま御一行は甚大な被害を被りました。これを小松原法難といいます。
今回の現地調査と、佛立研究所・局所長の小松原法難についての先行研究「日蓮聖人の弘通展開〜領家の尼と東條景信との土地訴訟問題の系年についての一考察〜」(『佛立研究学報』第13号)から、小松原法難の起こった真相と、法難の瞬間とその後など、今までとは違うさまざまな事象が見えてきました。
それをQ&A方式でお話しします!
Q お祖師さまは東條景信の屋敷近くにあった蓮華寺におられたのに、なぜそこでは襲撃されなかったのか?
佛立新聞7面、左上の写真は、花房蓮華寺から小松原法難現場を見た写真で、奥に見えるタワー辺りが法難現場です。この写真から分かるように、お祖師さまが当時おられた蓮華寺と法難現場(東條景信の領地)はかなり近い距離にあります。
A 小松原法難の首謀者である東條景信はその名が示すように、「東條」という地域を支配していました。清澄寺はこの東條にあります。お祖師さまが身を逃れた蓮華寺は「西条」という地域のお寺でした。2つの場所は目と鼻の先でしたが、東條景信の領地ではなかったためか、お祖師さまは危害を免れることができていました。ここに案内したのはお祖師さまの兄弟子である浄顕坊と義浄坊でした。お祖師さまは清澄寺を追い出されたと言われていますが、兄弟子たちから愛され、守られていたのがよく分かります。
Q 小松原法難の瞬間は、どんな感じだったのか?
A 法難が起こったのは文永元年11月11日、現在でいうと12月8日の午後五時頃、空が薄暗くなってきたくらいの時間だと言われています。お祖師さまは小松原というところで、
「頭にきず(疵)をかぼり(蒙り)」(『聖人御難事』高祖日蓮大士御妙判集第2巻489頁)とお示しですが、頭のどこを斬られたのかと言うと、左側頭部あたりを斬られたことがわかりました。
今までの額を切られたというイメージから、さらに詳細なイメージが湧いてきます。
Q なんでそんなことが分かるの?
A 最もお祖師さまのお姿に近い御尊像は小湊日蓮誕生寺という所にあり、その御尊像が修復された時、修復師(現在、佛立研究所と共に御遺跡調査の引率をしてくださっている立正大学名誉教授・中尾堯先生)が塗り物を全て剥がすと、御尊像の本当のお姿が現れてきました。
お祖師さまは目と耳、手は大きく、「額左側に傷」があるお姿で、左まぶたは少し下がっているようなお顔だったことが判明しました。(上のイラストのようなお顔であったのではないかと思われます)
お祖師さまのお顔のイメージが湧いた時は、私たち研究員は感動し目頭が熱くなりました。本当に命懸けのご奉公だったことがわかります。(次回につづく)