2025年01月06日
海外弘通だより~台湾編
昨年11月9日~14日、第6支庁では台湾講有巡教の団参が行われました。5泊6日の旅程で台北・佛立寺の高祖会講有巡教、台北・台中・高雄の3都市での日本人物故者慰霊法要、台南・烏山頭(うさんとう)ダムでの物故者慰霊法要にお参詣させていただきました。
1日目(11月9日)
午前8時に羽田空港国際線ターミナルに集合、台湾・松山空港へと出発。到着後、ツアーバスで台北市街地から約30キロ離れた、山あいの小さな町「九份」へと向かいました。台風の影響による雨の中、急勾配の「賢崎路」を登りました。石段の道は狭くて観光客で溢れ、立ち込める霧で視界は真っ白、足元はとても滑りやすかったです。
息を切らしながら階段を上がり切り、団参の方々と、九份名物「芋圓(ユーエン)」というタロイモのお汁粉をいただきました。控えめで優しいお味に、ほっと一息つくことができました。かつて金鉱で栄えた「九份老街」の情緒を、ほんの少しだけ満喫することができました。
2日目(11月10日)
台北・佛立寺の高祖会講有巡教にお参詣させていただきました。心配していた台風はルートをそれて通過し、無事晴天のお計らいに恵まれました。佛立第27講有・木村日覚上人ご奉修のもと、本堂は本庁随伴御一行8名、佛立寺内35名、大阪清風寺より14名、第6支庁団参27名の総勢84名のお参詣者でいっぱいになり、ご弘通隆昌発展の熱祷が御宝前に捧げられました。
お看経の後、式典では佛立寺より宗門への本山初灯明料奉納式、講有上人より佛立寺への弘通興隆費下附式と王建文事務局長への褒賞状授与式、第6支庁より佛立寺へのお言付けお花料奉納式が執り行なわれました。
また式典の中で、地元佛立寺の新入信徒3名の御本尊授与式が行われ、お三方の教化親である王絹鵑(けんけん)さんが、信行体験談をご披露されました。言語の違いに苦戦しながらも、日本語を習得されてご弘通にお励みになる姿に深く随喜致しました。
続いて御講有・木村日覚上人による御法門を拝聴致しました。『我祖師は如来のつかひかしこくも 其眷属はわれら也けり』との御教歌で、高祖日蓮大士は、お釈迦様の一番弟子である上行菩薩のお生まれ変りであり、如来のお遣いであるが、我々佛立信者は勿体なくも、そのお祖師さまの眷属(使者・身内)であるから、それに相応しいご奉公が大事である、とご教導いただきました。
人の命は有限で必ず肉体は滅びるが、仏様や上行菩薩の魂は永遠で、国籍や人種を超越した存在であり、法華経本門八品の御題目もまた永遠不滅で、「ボーダレス」「オール・オーバー・ザ・ワールド」なものであるとお教えくださいました。
時代を問わず一切衆生、誰もがお救いいただけてご利益を頂戴できる。お祖師さまが、生涯を通じて忍難弘教の御法難のなかで世の人々をお折伏くだされた様に、その身内である我々も志を同じくし、教化折伏行に励ませていただきましょう、と仰せでありました。
台湾有事における脅威がなくなり、どうか世界が平和でありますようにとのお言葉に、深く胸を打たれる思いが致しました。
御会式参詣終了後、台北市内を観光しました。その一つである「中正紀念堂」は、蒋介石が享年89歳であったことに因んで、89段の階段の上にお堂を建設したそうで、その天井も非常に高かったです。更に、堂内の座像は高さ約6メートルと、とにかくスケールの大きいことが印象的でした。
また、帰還叶わなかった中国本土への望郷の思いに応えるため、座像が西向きに置かれたという経緯も、どこかドラマチックだと感じました。
3日目(11月11日)
午前9時より「台北第二殯儀館」にて、第6宗務支庁長・新井日友師ご唱導のもと日本人物故者慰霊法要がお勤まりになり、その後、新幹線で台中へと移動。午後2時過ぎからは「台中宝覚禅寺」にて日本人物故者慰霊法要が行われました。
かつて台湾には佛立宗の親会場が五ヵ所あったそうで、1945年5月31日の台湾大空襲の際にも、多くの信徒が命を落とされました。
戦後1947年に、野沢六和氏と妻ムメさんが、農作業中に日本人の遺骨が入った白木の箱を掘り出したことに始まり、以降その地からは500名ほどの日本人の遺骨が見つかったといいます。その後、野沢氏は台湾全土を訪ね歩き、日本人物故者の遺骨を収集されました。
更に1957年からは、日本政府が本格的に日本人の遺骨調査・収集を開始。野沢ご夫妻も政府に協力され、1961年には2万柱近い遺骨が集まったといいます。
現在、日本人物故者の遺骨はこの「台中宝覚禅寺」と、「高雄懐恩宝塔」の2ヵ所に安置されています。また慰霊法要は、1961年より「台北(台北第一殯儀館)」「台中(宝覚禅寺)」「高雄(懐恩宝塔)」の3ヵ所で行われ、佛立宗は1970年から日本の宗教法人として唯一、台湾政府各諸機関と共に毎年11月に慰霊法要をお勤めさせていただいております。
今回は、その63回目にあたり「日本台湾交流協会」「台湾日本人会」「台湾協会」の各代表の方々がご挨拶されました。政府・民間のレベルを問わず、日台の友好関係を深め、絆や信頼を守り、相互の支援協力に対して感謝することが大切であると、世界平和を願ってやまないことをお話されていました。
宝覚禅寺での法要終了後、ツアーバスにて台中を後にし、午後6時過ぎ台南駅前のホテルに到着。長い1日を無事に終えました。
4日目(11月12日)
午前10時より台南烏山頭ダムにて物故者慰霊法要が、御講有・木村日覚上人ご唱導のもとお勤まりになりました。ダム建設を指揮した日本人技師八田與一氏と外代樹夫人のお墓がダムを臨む高台にあり、その御墓前で執り行なわれました。また建設中に起きたトンネル爆発事故の殉職者の名が刻まれた「殉工碑」や、外代樹夫人が「みあと慕ひて我もゆくなり」と記し、與一氏の後を追う様に身を投げられた「ダム放水口」でもご回向がありました。
佛立宗とは、與一氏の直孫である八田修一氏が、宥清寺の山西始人氏(元事務局長)と、田中伊三郎氏(元事務局次長・宥清寺ボーイスカウト創始者の一人)の直孫・弥生姉とご結婚されて、ご自身も佛立信徒になられるというご縁もあります。
八田與一氏(1886~1942)は、1930年に烏山頭ダムを完成させ、現地では「嘉南大圳の父」「台湾農業の恩人」と呼ばれています。また「分かち合いの精神」により、台湾人と日本人を差別せず様々な問題と向き合ったという人柄から「最も尊敬される日本人」として今も讃えられています。
烏山頭ダム公園内のレストランでの昼食後、午後1時に同地を出発、午後からは台南市内を観光しました。
5日目(11月13日)
午前10時より「高雄懐恩宝塔」にて、第6支庁長・新井日友師ご唱導のもと日本人物故者慰霊法要がお勤まりになりました。法要前には松本日就台湾教区長に納骨塔内をご案内いただき、御遺骨安置所に手を合わせることができて、大変ありがたいと感謝致しました。
午後は、高雄市内を観光しました。特に印象深かったのは、人造湖である「澄清湖」に架かる「九曲橋」です。その名の通り9つの曲がり角のある橋で、利点は四方が良く見渡せることだといいます。またガイドさんによると、この形状であるもう1つの理由は、幽霊が真っすぐにしか進めず、ジグザグの橋は渡れないと信じられているから、とのことでした。
実際に橋を渡りながら「何故なのだろうね」と談笑したことが、楽しい旅の思い出となりました。それから午後4時過ぎ、新幹線に乗って高雄左営駅から再び台北へと戻りました。
6日目(11月14日)
団参最終日、台北市内にある故宮博物院を見学しました。同博物院は、世界四大博物館の1つとされ、その収蔵品は約68万点にも上るそうです。豪華絢爛な至宝は、どれも精緻さとダイナミックさが備わっている様に感じました。
しかし、この日一番の見どころであった「翠玉白菜」は、展示所に辿り着く手前で道に迷い、大変焦ってしまい自由時間が経過。鑑賞はできましたが慌ただしく終了しました。ご一緒だった方の「きっとまた来るよね」とのお言葉に、とても温かい気持ちになれて、ありがたく思いました。
午後4時過ぎ、松山空港から羽田空港へ一路帰国の途に就き、無事帰山することができました。皆大きな事故や怪我もなく、帰国してこられたことが本当に良かったとひしひしと感じました。
以上、台湾団参のご報告でした。今回のお参詣を通じて学んだことを糧に、今後もより一層ご信心ご奉公に邁進させていただきたいと思います。ありがとうございます。(萱森宣子 拝)