ほんもんぶつりゅうしゅう

仏教用語・信行用語

ぼんぶ
 「凡」とは世の中のつまらない迷いのすべてをいい、「夫」とは世間の人の意。欲に執着して身も心も惑わされ、自分の進むべき道を見失い苦しむ人をいう。
ほんもん
 法華経二十八品のうち後半の十四品を本門という。本門は釈尊がご自身の本体である久遠本仏の覚位に立って説かれた法門で「凡夫が仏に成る因行」を説かれたもの。
ほんもんはっぽん
法華経本門の従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15から嘱累品(ぞくるいほん)第22にいたる八章を「本門八品」と呼びます。佛立宗では、法華経の中でもとりわけこの本門八品の教えを重視します。その理由は、この八品にはわたしたち末法に生を受けた者が、お持(たも)ちすべき御本尊と、信心修行のあり方が説き示されているからなのです。 従地涌出品第15では、末法において仏さまの真実の大法を弘める命を受けた、上行菩薩という方をリーダーとした「地涌の菩薩」と呼ばれる菩薩方が登場します。この方々は、遠い過去からずっと久遠本仏にお仕えされてきた尊い方々です。  次の如来寿量品第16において、仏さまはご自身の本身は遠く久しい昔に「菩薩行」という修行をし、成仏を果たした久遠本仏であることを明かされます。その悟りの功徳は「南無妙法蓮華経」の御題目におさめられていることを示されます。  さらに、分別功徳品第17、随喜功徳品第18、法師功徳品第19では末法における信心修行のあり方、そして久遠本仏の教えを信受し、喜んで 御題目を受持する者はどのような功徳、果報を得ることができるのかが説かれます。  次いで常不軽菩薩品第20では、末法における法華経修行者の手本として「常不軽菩薩」という方の故事が説かれます。  そして本門八品の最後の二品、如来神力品第21と嘱累品第22において、久遠本仏は上行菩薩等の地涌の菩薩方に対し、悟りの法である御題目をお授けになり、末法の時代にこれを弘めることを命じられるのです。 上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩方は、他の爾前諸経のお経には一切登場せず、法華経のなかの、さらにはこの本門八品が説かれる間のみ、その存在を示されるのです。つまりこれは、末法に御題目を弘める使命を受けた上行菩薩等の地涌の菩薩方が登場している間の教え、本門八品の教えは、仏さまの亡き後の末法を生きる我々に向けた教えだということが分かるのです。  その末法を生きる我々の為に、久遠本仏から御題目を授かった上行菩薩というお方。上行菩薩とはいったいどのような方なのでしょうか、次に見てみることにいたします。
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