ほんもんぶつりゅうしゅう

仏教用語・信行用語

はつまいり〔はつさんけい〕
初参り〔初参詣〕とは、新たに誕生した子供を初めてお寺に参詣させることをいいます。御宝前に無事出産のお礼を申し上げ、今後の健やかな成長と信心相続をご祈願させていただきます。
ひちごさん
一般世間において、七五三は子供の成長を祝い、また願う行事として知られています。子供に持たせる千歳飴には、子供が元気よく成長するよう、また長生きするようにとの願いがこめられています。  「髪置き〔かみおき〕」は3歳の男女に対し行われ、その日を境にそれまで剃って短いままだった子供の髪を伸ばし始める儀式です。「袴着(はかまぎ)」は5歳の男の子が、初めて袴をつけ、「紐落し(ひもおとし)」あるいは「帯解き(おびとき)」は、7歳の女の子がそれまで着物を留めるのに使っていた紐を帯に変える儀式です。昔は医療・衛生的に未発達で乳幼児の死亡率が高く、成長する子供は幸運とされていたため、七五三の行事が盛大に営まれていました。  佛立宗でもその日本古来からの風習にのっとり、11月15日の前後の日曜日などに、「七五三無事成長御礼参詣」という名の法要を営んで、子どもたちの無事成長を感謝すると共に、身体壮健や学業成就、信心相続などを祈願します。
ふせ
 一般には僧にたいし金銭、財物を贈ることを「お布施」というが、本来は純真な心で他に物質的、精神的施しをすることをいう。  布施行は菩薩が行うべき六つの修行の第一にあげられている。布施行にも種々の種類があるが、大きくは法施と財施に分けることができる。法施とは仏の教えを人々に説き与えること、財施は自身が所有している金銭、財物を法のため、また人のために施すこと。
ぶっきょう
 紀元前五世紀頃、インドに出現された釈迦牟尼世尊(釈尊)によって開かれた宗教、あるいは釈尊の教えやそれに関する種々の経釈・論の総称。
ぶっしょう
 一切衆生が本来備えている仏となりうる性質、素質のこと。
ぶっちょく
 仏の命令、仏から与えられた勅令のこと。
ぶつどう
 仏が説かれた教え、あるいは仏果にいたる信心修行の道のこと。
ぶっぽう
 仏が悟った法界の真理、あるいは仏が説いた教法のこと。
ほうおん
 御法や蓮・隆・扇三祖の大恩に報いること。
ほうごう
 法名ともいい、出家得度の時、あるいは受戒の時に師より授かる称号のこと。今日では一般に在家の人が主に死後与えられる戒名のこと。
ほうぼう
 法を謗ること。法とは正しい教え、上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目のこと。つまり、正しい教えを疑い、信じない心と正しい教えに背く行為。例えば万法具足の法華経の御本尊を信受せず、他の神仏をも拝み、あるいは祠ることをいう。
ほけきょう
法華経は「諸経の王」「最勝の教え」「真実の教え」といわれ、仏教経典の中では、昔からもっとも広く尊崇・信奉される経典です。日本でも古来より聖徳太子をはじめ、多くの人々が魅了され、アジア諸国、その他世界中の人々の信奉を集めてきました。  歴史上インドにお生まれになったお釈迦さまは、30歳の時に成道(成仏を果たすこと)されて以来、80歳でお亡くなりになるまでの50年間、実に様々な教えを説かれました。そしてご晩年の8年間に、集大成とも言うべき「法華経」をお説きになられます。その際に、お釈迦さまはまず聴衆に対し、こう言いました。  「これまで、様々な教えを説いてきたが、実はそれらはすべて仮の教え、方便の教えであって、未だ真実の教えを説いたことはない。素直にこれまでの方便の教えを捨て去り、これから説く真実の教え、法華経のみを信じ、頼りにして、修行に励みなさい。決して、これまで説いた他の教えの一語一句をも、頼りにしてはならないぞ」  法華経を説かれるまでの40余年の教えは、すべて法華経を説かんがための前置き、つまりご自身の真実の教えを理解させるための、いわば育成段階の仮の教えだったというのです。これらが今日、華厳経、阿含経、大日経、阿弥陀経などの数え切れない御経となって残されています。これらをまとめて「法華経の爾(そ)の前」に説かれた教えとして、「爾前諸経(にぜんしょきょう)」と呼びます。法華経の前に沢山の爾前諸経を説かれたのは、いきなり小学生に大学受験の問題を解かせようとしても無理なことと同じだからです。つまり仏さまは、自身が覚られたその世界観、その修行方法を、法華経の中でお明かしにるにあたり、それを理解させるために40余年の間、人それぞれに合った育成の教えを説かれたのです。  その爾前諸経の一つを選んで、「同じ仏さまの教えだから有難いに決まっている、功徳がいただける」と豪語し、それを崇拝しても、所詮その教えは準備・教育段階のためだけの内容でしかありません。その教えに従って修行に励んでも、功徳を積み、成仏というゴールには決してたどり着くことはないのです。  そんな、仏さまの成仏の秘訣が説かれる法華経……全部で28品(ほん=「章」の意)に別れて教えが説かれていますが、前半の14品を「迹門」、後半の14品を「本門」といいます。これは、大きく分けて2つの内容=教えが説かれているということを意味します。  迹門の「迹」という字はアト・カゲという意味で、法華経自体が真実の教え、集大成の教えとはいいながら、その中でも初めの迹門では真実の足跡・影を示されたもの、というのです。  本門とはいうまでもなく、本物、実物というわけであります。真実という点からいいますと、影も実物も、爾前諸経の権(か)りの教えと比べればまったく違うわけでありますが、しかし実物でなく、その影であれば、効用(ききめ)は爾前諸経と同じように"ない"ということになります。  それでは迹門と本門とは一体何が違うか、簡単に説明すると、まず迹門と本門とでは説かれた時の「仏様のお姿」が違うのです。迹門の教えを説かれたときはまだ、迹(かげ)のお姿であられました。というのは、仏様という方は、われわれの常識からしますと、いまから約3000年前、インドにお生まれになり、19歳で出家、30歳で成道、80歳でご入滅された、歴史上のお釈迦様の事を指します。爾前諸経と法華経迹門までは、この仏様のお姿で法を説かれました。  しかし、実はこれは仮りのお姿であります。ただ一切衆生を教化されるために、人間として生まれ、悟りを開くという姿を一時的に示されただけで、本当は、既に久しく遠い昔に仏様であられたのでした。この本当の姿を「久遠本仏」といいます。本門の如来寿量品第16において、仏様はその本当のお姿を現されるのです。
ほけきょうのぎょうじゃ
 法華経の教えにもとづき修行し、法を弘める者のこと。末法においては日蓮聖人の教えを信受し、上行所伝の御題目を我も唱え、人にも持たしめんと励む者のことをいう。
ぼさつ
 菩提薩埵というインドの言葉を短縮して菩薩という。菩薩は悟りを求めて自ら修行に励む(上求菩提)とともに、他の人々にも法を勧め、仏の教えを世に弘める(下化衆生)人をいう。  当宗においては上行所伝の御題目を人に勧めて持たしめることが最上の菩薩行である。
ほっとうそうぞく
 「法灯」とは「正法のともしび」という意。佛立信心の灯を相続すること。親から子へ、子から孫へと佛立信心を相続すること。また元来は必ずしも血縁間に限らず、師弟や教化親子間も含む。
ほんにんげしゅ
南無妙法蓮華経の御題目をお唱えすると、誰の心にも「成仏の種」が下されます。これを「本因下種」と呼びます。  久遠本仏は如来寿量品第16において、既に遠い過去に成仏をなし得たこと(果)と、その為に長い菩薩行という修行をされたということ(因)を明かされました。この成仏をなし得る修行、菩薩行とは一体どんな修行かといいますと、仏様が久遠の昔、まだ我々と同じ普通の人間であった頃、南無妙法蓮華経と自ら口に唱え、かつ他の人にも同じことをお勧めするという修行でした。この成仏の「本(もと)となった修行〔因〕」を「本因妙」といい、この仏さまの本因妙の修行の内容をそのまま説かれたのが本門八品の教えであり、最後にその肝心の種である御題目、南無妙法蓮華経を本化上行菩薩に譲り与えられ、末法を生きる我々に対し、その成仏の種〔仏種〕を植え、成仏させようとされたのでした。  つまり、御題目のご信心をほんの少しでも「ありがたいなぁ」と想い、自らの口に唱える。その時点でその人の心には成仏の種、仏種が植え付けられることになります。種にはもともと芽が備わっており、必ず開花するものですから、仏種が植え付けられた時点で自ずと成仏という果報を頂戴できるということになります。後は仏さまが実際にされたのと同じように、自ら御題目を唱えて功徳を積む、つまりその仏種をどんどん育んでゆけば良いのです。そしてこの素晴らしい種を自分だけのものとせずに、他の人の心にも植え付ける、これが成仏を果たすための修行、菩薩行なのです。  本因下種とは、その成仏の種である南無妙法蓮華経の御題目を唱えることをいうのです。   そこで、佛立宗では御題目の口唱に入るその前に、必ず「本門八品所顕〔本門八品に説き顕された〕、上行所伝〔上行菩薩から伝え受けた〕、本因下種〔正しい仏種を植え付けていただくため〕の南無妙法蓮華経…」とお唱えします。これからお唱えする御題目が、間違いなく久遠本仏から頂戴した正しい御題目です、ということを御本尊にお伝えするのです。そしてその正しい御題目を唱え重ねることによって、我が身・我が心にその功徳を頂戴することができるのです。  それでは、その「本門八品所顕、上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」を口にお唱えすると、具体的に何が起こるのでしょうか?次に見ていくことにします。
ほんにんみょう
 久遠本仏が行ぜられた成仏の果報(本果妙)のもととなる「我も唱え、他にも勧める」自唱他勧の菩薩行のこと。また、佛立信者が行じている日々の口唱信行ご奉公を本因妙の修行という。
ぼんのう
 正しくは「煩擾悩乱」といい、「煩擾」とは自分の身体やそのまわりが乱される、身体を原因とする悩み。「悩乱」とは思い悩んで心が乱されることで、心を原因とする悩み。ここから二文字を取って煩悩という。煩悩は「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などに分類されている。
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