ほんもんぶつりゅうしゅう

2014-03-31 16:24

沿革

※福島県会津地方

大正末期に弘通開始。昭和3年 林平蔵氏が大竹源蔵氏の教化により入信。同年7月 清水正深師(清水日博上人)が御本尊をおともし、会津若松入りして御奉公が始まる。昭和4年 弘教組の組名を下付される。昭和5年林平蔵氏宅を仮親会場(開筵式奉修)とされる。本門佛立講東京第2支部若松親会場発足(林宅の向かいにあった工場の一画を提供された)。ご信者は50名程にすぎなかったが、県内で乗泉寺法系中では早くから弘通の拠点ができたところである。

その後、10年余り、本寺乗泉寺から天野正安師・服部隨要師・山田応谷師をはじめ10人くらいの教務員が出張御奉公を続けてきたが、昭和19年吉村正貞師が初代住職として赴任、教講異体同心・寺院建立に邁進。昭和21年現在の土地を購入。弘通拠点を現在地の針屋名子屋町(現・日新町)の旧家を改装し、仮本堂を拠点に御奉公が始まる。昭和23年落成、開筵式を奉修、寺号を信遠寺と公称した。同24年現在地に仮本堂を移築。

この間、戦争で疎開してきた品川の村田ヒサ女の御奉公はめざましく、喜多方・五泉・村松の基盤がこの頃つくられたものである。

昭和28年12月、朝倉正明師が2代目住職となり、開百を機に本堂を建立(同30年)を果たし、同46年、朝倉乗明(日敞)師が3代目を継ぎ、同47年に講堂を建設するにいたる。同52年9月東山天寧寺の信遠寺墓地完工式執行(頌徳碑除幕式)。同57年10月現在の客殿が完成。

弘通範囲は会津若松一帯・喜多方・五泉・村松におよんだが、五泉・村松はその後、新潟・妙耀寺の所属(先住・朝倉日敞上人時代)となる。

納骨堂建立は現在の本堂完成以来の願望であったが、昭和34年11月に宿願を達成。当時大きさ・構造共に東北一のものであった。

信遠寺信徒から得度された方  阿部正善師・竹俣堅相師・加藤乗順師・渡部眞也親子等である。

現住職(平田淳当)は平成17年5月1日より御奉公、同19年4月に住職に就任。同6月に御会式にあわせて住職就任式執行(先住 朝倉日敞上人御3回併修)。現在にいたる。