ほんもんぶつりゅうしゅう

信厚寺


2017-05-07 09:41

事行山録4月 一人打つ鼓

 ことわざに 「一人打つ鼓は鳴りがせぬ」と言う諺があります。この諺は凡そ次の様なことを言っているのです。「鼓の名人が一人で鼓を打っていても、良い音色が出ない。弦や笛が伴奏してくれてこそ力量以上の音色が出せるものであって何事も他の協力を得る事は大切である。一人芝居はそれなりに、その芸としては良い事もあろうけれども、勿論お節介焼きではなく、真剣の人の影響が自分の人生に成長を与えてくれるという事のありがたさを知らないと、より器量は伸びはしないというものです。
 「納種在識・永劫不失」
 随分昔の話です。私が東京乗泉寺でご奉公見習をさせて頂いていた頃の事ですから、昭和三十四年の夏のころの話です。私は母から「お前は東京の東中野にいた頃生まれたのだよ」と聞かされていました。何時か出生地を訪ねて見たいと思っていたので、暇を見つけて探訪を試みてみました。随分昔の話です。兎に角中野の駅で降りて、さて 「きょろきょろ」としていましたが、丁度古い事を知っていそうな年格好をされた人が見えましたので聞いて見ました。所がその人は、古くからこの近辺に住んでいた人で助かりましたが、「住所については、何か思い出はないか」矢継ぎ早の問いかけです。 「高架線があった様に思うけど」「それだけじゃあわからないよ」話はとぎれるかと思った所、近所の人に聞いて下さっだのです。その人は「随分古老の匂いがした人」でしたが、お二人で随分話して下さったのですが「昭和八年は遠過ぎ」ました。でもお二人は「良いじやないの、この辺で産湯を使った身内だ」この言葉に母が生きていた時に味わった暖かさの様なものを感じ取り、渋谷に帰りました。ただ何で高架があったのか不明でしたが、何時だったか忘れましたが、小学校六年生の時、母
と訪ねた事があった様に思い出しました。「納種在識・永劫不失」なのでしょうか。
昭和の見方
 あの時の同心感は今までも忘れられません。今の世の中「産めよ増やせ」の時代を経てきた年寄り沢山居ます。でもどんどん減っています。高齢者と呼ばれる「年寄り」が増えました。もう少しの間益々増加する事になっています。もし「平成という年号が使えたとすると、平成三十年度頃から十年位が、老人の増える山の頂上になりそうで、その時代の人口の年齢層は、年寄りと子供で人口の三割を占める様になり、それらの人を支える若い人の肩には大きな重しがのしかかります。老人大国が瓦解した時は昭和の死滅となるのでしょうか。昭和
は悪い事ばかりではなかったと伝えたいです。肩を寄せ合って生きた時代でもあったと伝えもしたいです。