ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-07-08 10:16

7月8日の隆宣寺日記

私達人間の目で見えているものや、耳で聞こえているもの。手で触れたり、舌で味わえたり、鼻で嗅いだりできるもの。それらの情報を総合して頭でわかるもの。この範囲内で「この世の全てが把握できているのか?」と言えば、決して、そんなことはありません。
 
もし、それで「全てがわかっている」というのであれば、それはまさに「井の中の蛙大海を知らず」というもの。生まれながら井戸の中に住む蛙は《井戸の中》がこの世の全てだと思い込み、井戸の外側に広がる世界も知らず、大きな海があることも知らない。たとえ「そういう世界がある」という話を聞いたとしても、井戸の中からは見えないので、信じようともしない。「そんなものはない、あるはずがない」と決めつけてしまうのです。
 
私達人間にも、そういう一面があります。確かに科学技術は飛躍的に進歩して、昔に比べれば桁違いの情報を手に入れ、ミクロの世界も、マクロの世界も把握しつつあるのかもしれません。しかし、それは「人間の能力」という限られた範囲の中で知り得たものであり、その情報だけをもって「これがこの世の全てだ!」と思い込んでしまうのは「人間の能力」の外側にある、広大な世界を知らずにいるようなものです。いわば、人間では知り得ない世界、そういう事実がこの世には必ずあるのです。
 
それを「理外の理」と言ったりしますが、これを理解しようとしても人間の理解できる範囲の外側にあるので、永遠に理解はできません。これは理解するのではなく《信じる》しかないのです。そして《信じる》とは、単に否定せずに受け入れる態度ではなくて、その「理外の理」の通りに生きてみるということです。特に《仏説》仏様が説かれた「この世の真理」は、まさに、この世の全てを説きあらわしたものです。その通りに生きるとは、この世のサイクルに逆らわないで、その流れそのままに生きるということです。
 
大空を吹き抜ける風に《向かい風》も《追い風》もありません。ただ、その風に逆らうからこそ《向かい風》になるのであり、その風のままに進めば、どんな風も《追い風》になります。この世にも《この世の真理》という流れがあります。それはミクロ世界・マクロ世界共通の流れです。この理論・理屈がわかれば「悟った」ということになりますが、それは私達人間が持つ能力だけでは到底、マスターできません。つまり《信じる》ほかに手段・方法はないのです。
 
むしろ《信じる》だけでマスターできる、悟ったのと同じ状態になれる。それが仏説・仏教であり、そこにこそ「人々を救いたい」という仏様の慈悲があるのです。わからないものを無理にわかろうとするのではなく、わかっているものが「この世の全てだ」と勘違いするのでもなく、自分の心の中に実は存在している《仏》という可能性にアプローチする。それはまさに《井戸の中に住む蛙》が大きな海を信じて、井戸から出るようなもの。生まれつき人間の私達が《仏》になる「悟る」とは、そういうことです。さぁ、勇気を出して《信じる》第一歩を踏み出してみましょう!
 
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