ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-08-30 21:02

8月30日の隆宣寺日記

1年365日24時間は、誰にとっても平等です。大喜びしている人であっても、悲しみの底にいる人や絶望の淵にいる人も、時間は一切えこひいき無しで、同じように時間は流れ続けます。早くなったり遅くなったり、長くなったり短くなったりはしません。「このまま時が止まればいいのに…」と言うセリフを耳にしますが、これは良いシーンでも、悪いシーンでも成立するセリフです。
 
そう思えば、その状況を良いシーンにするのも、悪いシーンにするのも、結局は客観的事実ではなくて、主観的な自分自身の思いや受け止め方なのです。過去をどう評価するか、現状をどう受け止めて、未来をどう見据えて、どう踏み出すか。それを決めるのは自分、それを決められるのは自分、あの人でも、この人でもありません。そう思うと「あの人が、この人が…」と言ってしまう口癖のある人は、自分の人生を「あの人、この人」に任せ、委ねてしまう癖がある人だと言えます。
 
もし、それで幸せなのであれば、それも選択肢の1つとして有りかもしれませんが、おおよその人は、幸せではなくて、むしろ不幸せであることの方が多いように見受けられます。自分を幸せにできるのは基本的に自分なので、自分が自分に味方しなかったら、それはそれは「かなり分が悪い」訳で、自ら幸せの条件を悪くしてると言えます。私達は何も不幸になるために生まれて来た訳ではありません。むしろ、幸せになるために、今日を笑顔でいるために生きたっていいのです。
 
「信じて待つ」というのは、決して不幸なことではありません。むしろ、何かを信じて待てることは、とても幸せなことです。そこまで信じられるものがある、そこまで信じられるようになるのは、誰でも簡単にできることじゃありませんが、実に有難いことです。もし、信じる相手が《人》であれば、疑ってしまうこともあるかもしれません。でも、信じる相手が《仏様》であれば、疑う必要もありません。
 
そもそも、信じる対象である《仏様》を疑ってかかることは、自分で選んだ病院の先生を最初から疑ってかかるようなもので、それなら初めから、その病院へ行かなければいいだけのことです。今、ご信心をさせてもらってる、お寺へお参りさせていただいているのなら、ただただ信じるのみ、その時が来るまで信じ続けるだけのことです。それが幸せの第一条件、大前提であることを、私達は忘れてはいけませんね♪
 
 ☆朝参詣御法門は【ここをクリック】(YouTube)