ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-08-31 10:39

8月31日の隆宣寺日記

私達には「今」だけがあるのではなくて、歴(れっき)とした過去があり、未来があります。その過去は私達の想像を絶するほど果てしなくて、未来もまた延々と果てしなく続きます。つまり、今回の人生が命の始まり、魂のスタートラインではないということです。ということは、真っ新、新品、純白の魂ではないということを意味しています。
 
魂の特性として、私達が思ったこと、言ったこと、行動したことを全て記録しています。ただ、1回の人生が終わるごとに、前世のことは全て忘れてしまうので、魂には全てが記録されていますが、意識レベルで言えば全く思い出せないのです。それでも過去の事実は変わりませんし、自分がやったことの責任は必ず負わないといけません。
 
善いことをすれば、それは幸せの種となり、悪いことをすれば不幸の種となります。つまり、果てしない過去から蓄積してきた数々の種が、私達の魂には保管されているのです。植物の種でもそうですが、種さえあれば全て発芽して、花が咲き、実がなるのか?といえば、決してそんなことはなく、発芽するための環境が整うまでは、ずっと種のままです。
 
その環境のことを仏教では「縁(えん)」といいます。もし、ご縁があって環境が整えば、遥か遠い昔の種であっても発芽することになります。そうなれば、その種の良し悪しによって、私達の人生を大きく左右することにもなります。つまり、今の人生を作っているのは「過去の自分」も含まれるということなのです。
 
「今の自分」にしろ「過去の自分」にしろ、いずれにしても全ては自業自得(じごうじとく)です。自分の人生を作るのは自分、その責任を取るのも自分、どこまでも自分の事であって、それを人任せにすることもできなければ、人のせいにすることもできません。いわば、何一つとして他人事ではないということです。
 
しかしながら、現実世界に目を向けると「他人事」にしている人は少なくありません。幸せな事、嬉しい事であれば「これは私の!」とスムーズに受け入れられますが、不幸な事、いやな事であれば「これは何!?どういうこと!!」という反応が多々。そして、その原因を自分以外の誰かに求めてしまう悪い癖があります。
 
でも、それは成り立たない話であり、その種を作ったのは自分です。もちろん、周りの人が、その種を開花させる環境を作った可能性はあります。ただ、それは、わざわざ開花させるために、悪意を持って作った訳ではなく。むしろ、そういうご縁を引き寄せた可能性が私達自身にあるのです。
 
結局、都合の悪いことからは目を逸らしたい、誰かのせいにしたい、というのが本性。でも、それが目の前の問題を解決から遠ざける最大の原因となってしまいます。反対に、その問題を自分の事と受け止め「自分がやらなきゃ!」と思うことが、問題解決へ向かう絶好スタート、最大のチャンスとなるのです。
 
以前、私は金融関係で仕事をしていて、お金を返してもらう業務にあたっていました。そこで実に沢山のお客様と出会いましたが、問題を抱えている方のほとんどが現実から逃げ、言い訳を並べ、負の感情を抱き、どこか他人事のように話していました。その状況のままで完済となった方は、残念ながらいません。
 
そして今、僧侶として日々を送っていて、色んな方々の人生を垣間見る訳ですが、人生の諸問題をこじらせる方は、やはり先ほどの方と同じような特徴を持っておられます。中でも、最大の特徴は「他人事」と「放置」です。ここに気づいて、ここを乗り越えない限り、明るい未来は見えてきません。
 
大きく膨れ上がった借金も、コツコツと返済していけば完済も夢ではありません。そのためには、まず自分の事と受け止め、自分から動き始めることが最善の策です。人生における大きな問題も、コツコツと取り組んでいけば必ずゴールは見えてきます。そのためには、やはり自業自得なんだと腹を括って、自分から動き始めることです。
 
私もお寺のみんなも、応援、サポートは全力でさせていただきますが、その効果が出始めるためには、まず本人がスタートラインに立つことです。むしろ、スタートさえ切ってしまえば、あとは前に進み続けるのみ。問題解決に向けた人生のレースに、自らエントリーしましょう!
 
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