ほんもんぶつりゅうしゅう

2021-01-15 16:31

1月15日の「毎日ぶっきょう」

仏教の根本的な教えに「無常」というものがあります。「常(つね)が無い」と書いて無常ですから《この世に永遠不滅は無い》ということです。つまり、この世の全ては常に変化していて、一定では無いことを意味しています。それに対して私達人間は、あまり変化を好まず「安定」を願うものです。もちろん、良い変化であれば「それも有りかな」と比較的受け入れやすいものですが、悪い変化であれば、なかなか受け入れられず、心にはストレス、苦しみが発生してしまいます。

 

実は、この世を「憂世(うきよ)」と言ったり「娑婆(しゃば)」と言ったりして、私達が住む世界は「つらい事や苦しい事が多い」と表現する原因はそこにあります。つまり、この世の全ては「無常」であり、当然のように変化し続けるものです。これを止める方法はありませんので、それが至って普通、何も特別なことではありません。ただ、そうやって常に変化する世の中を、私達人間が、なかなか受け入れることができず、《安定を望む自分の心》と《目の前の変化》との間でストレスが生じてしまうのです。

 

仏様が、そのストレス・苦しみを解決できたのは「悟りを開いたから」ということですが、ごくごく簡単に言えば「この世が無常であることを知ったから」ということになります。ただ、それは単なる知識として「知っている」ということではありません。私達は一定の年齢になれば「死」を理解しますが、その苦しみを解決できている人は僅かです。そこが「悟っている」と「知っている」の大きな違い目。そして、それは老いる事や病気になる事など、全ての苦しみにおいても同じことが言えます。

 

映画が記録的大ヒットしている『鬼滅の刃』のセリフに、こんなものがあります。

「老いることも、死ぬことも、人間という儚(はかな)い生き物の美しさだ。

老いるからこそ、死ぬからこそ、堪(たま)らなく愛(いと)おしく、尊(とうと)いのだ」

こんな風に感じ取れる心であれば、老いることや死ぬことに対する認識は違ったものとなります。そうすれば、この世界の見え方だって「憂世」や「娑婆」という苦しみの世界とは違ってきます。ただ、そういう心に誰もがなれる訳ではなく、だからこそ現に多くの人が苦しみを感じているのです。

 

折角、この世に生まれて、この世で生きていくのですから、あまり悩まず、苦しまずに生きたいもの。老いることも、死ぬことも、決して避けることはできませんし、むしろ、それが人間らしさです。長い人生の中で素敵な出会いもあれば、悲しい別れもあり、これらもまた人生には付き物です。それらを「苦しみ」なんかにしないで、もっと前向きに生きていくチカラにしていける心にしていく。そのために仏様は、私達でも「悟る」と同じ効果が得られる教えを説いてくださっています。ぜひ、この人生をより良く生きるために、あなたの日常に仏教、お寺をプラスしてみてください♪

 

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