ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-10-31 12:18

10月31日の隆宣寺日記

悪事は人の道から外れた行いだから、そんなことはしちゃいけない。この意見に対して反対する人はないでしょうし、誰もがそうあるべきだと思っています。しかし、自分自身が悪い事を「している」「していない」という判断、認識については、自分が思っている以上に「疎(うと)くて、鈍感である」と言えるのではないでしょうか。仏教では「人としてやってはいけない行為」を教え、未然に防止すると共に、普段の言動を省みて、自分自身の至らなさや罪深さを自覚する機会を持ちます。しかし、実に多くの方が「自分は悪いことなんてしてない」と思い、そう口にします。ただ、それは「警察の厄介にはなってない」というレベルの話がほとんどです。
 
たとえば、相手の体を傷つければ刑法の傷害罪になりますし、怪我は負わなくとも、相手に暴力をふるえば暴行罪になります。しかし、相手の心を傷つけても、言葉の暴力をふるっても、警察に逮捕されることはありません(脅迫・強要の場合は刑法犯になります)おおよそ、その言葉を発した人(加害者)の言い分はこうです。「そんなつもりは無かった」「まさか、こんなことになるなんて」そこに悪意が潜んでいる場合もありますが、多くは意図せず相手を傷つけています。でも、言われた側(被害者)は現に心に暴力を受け、時に傷ついているのです。
 
悪事とは、それぐらい私達の身近にあって、誰もが犯していることだと言えます。「警察に捕まってないから」という言い分は、決して的を射ていません。むしろ、そういう自覚の無さ、罪の意識の希薄さが、更なる悪事を招きます。「自分も悪事を犯している」という自覚を持ってこそ、それが悪事を犯さない第一歩です。たとえば、仏教では《十悪(じゅうあく)》といって、体・口・体で犯す10種類の悪を教えます。詳しい話は別の機会に譲りたいと思いますが、人の命や財産を奪ったり、盗んだりという悪事から、嘘をつく、真実を誤魔化す、保身のために都合の良いことを言う、陰口やヒソヒソ話をするなど…私達が日常生活を送る中で、よく見かける光景も数多く含まれています。
 
「一体何が悪事なのか」を知ることは、悪事を防ぐ上で必要不可欠です。知らず知らずに犯した悪事も、確実に自分自身の罪となり、災い・不幸の種となります。自分自身に災い・不幸の原因を求めない人は、必ず世の中や誰かのせいにするものです。それでは何も変わらないし、変えられない、大切なことは自分自身を省みること。自分で自分を見ている間は、自分の過ちには気づけないものです。仏教という物差し、定規を基準にして、自分を判断、認識するからこそ、自分の姿や、自分がやっていること、言っていることの価値が正しく把握できます。悪事を防ぎ、善事を積み重ねる、そういう生き方を「仏教で」していきましょう♪
 
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