ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-09-30 09:40

9月30日の隆宣寺日記

全く同じ話を聞くにしても《自分の事》として聞くのと《他人の事》として聞くのとでは大きな違いが生まれます。たとえば「妊娠・出産」をテーマに講演をなさってる先生が仰ってました。「女子学生の大半は興味関心を持って、熱心に聞き、質問もして、感想もしっかりしてますが、その一方で、男子学生は興味関心は薄く、聞く態度も、学ぼうとする姿勢もイマイチですね。」と。
 
なぜなら、女子学生にとっては将来、自分の身の上に起きるかもしれないことですが、男子学生にとっては、自分の身の上に決して起こらない出来事だからです。ただ「じゃあ、男子学生にとって他人事なのか?」と言えば、そんなことはありません。将来、結婚して、奥さんが妊娠・出産を経験する可能性はあります。奥さんの身の上に起こること、体調の変化は思っている以上に大きなものです。
 
そのことを全く知らずにいては、妊娠中の奥さんを大切にすることはできません。お腹の子供の成長や、それに伴う母体の変化、そして母子ともにかかえるリスクなど、妊娠周期に応じて心得ておくことは、実に多岐にわたります。女性は、そういった情報を学生の頃から知識として学んでいるものですが、男性は、全くと言っていいほど無知です。
 
かく言う私も、実際に家内が妊娠するまでは「何も知らない」に等しい状態でした。妊娠後、家内は色んな本をドンドン読むようになり、準備を備えていきます。それに伴って、私も遅ればせながら本に目を通し、今後起こることや起こり得るリスクについて学び、それらを想定して生活するようになりました。結局、他人事にしている間は、どんなに話を聞いても、あれこれ学んでも身になりません。
 
これは、どんな《学び》においても同じことが言えます。たとえば、仏教では万人に関係ある「生と死」にまつわる話を取り扱います。生があれば必ず死があり、死を知らずにいることは生を知らずにいるのと同じです。しかし、実に多くの人が生と死を別々、バラバラにしてしまっていて、特に、死を嫌い、遠くへやってしまおうとする傾向があります。
 
でも、そうやって《死》を遠ざけ、あえて興味関心を持たないようにしてしまったり、それこそ他人事にしてしまったりしていると、いずれ《生》を見失うことになります。生と死は二つで一つ、ここに興味関心を持ち、自分の事として学んでいくことによって、正しい命の使い方、正しい生き方も自然と身についてきます。より良い死は、その向こう側にあることを私達は決して忘れてはいけないのです。
 
生きることも、死ぬことも、私達自身の問題であり、より良い人生を送るためには必要不可欠な学びであると言えます。何も学ばずにいたとしても、生きることはできますし、時が来れば必ず死にます。しかし、学びの有無によって、その内容・質については大きな違いが生まれます。ぜひ、生も死も《自分の事》として興味関心を持ち、耳を傾け、学びを得て欲しいと思います
 
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