ほんもんぶつりゅうしゅう

2021-01-22 10:13

1月22日の「毎日ぶっきょう」

「苦しい時の神頼み」

信仰心が無く、普段は全く神仏に手を合わせることもない人が、困った時だけ神仏に頼ろうとして、手を合わせる身勝手さをいう。

 

確かに、そういう態度だと「自分勝手な人だ」と思われても仕方ありません。普段は全く連絡してこないのに、こちらが困ってる時は全く愛想がないのに、自分が困った時だけ連絡をしてきて「友達だろ?仲間だろ?」と言ってくる。おそらく、そんな人を「友達」や「仲間」と思う人は少ないのかもしれません。

 

しかし、それらを全て考慮した上で、相手を受け止められる器の大きさ、懐の深さが《慈悲》だと言えます。「本当に苦しい時に助けを求めてくれた」という一点に期待を込めて、チカラになってあげようとする。「問題が解決すれば、元の木阿弥になるかもしれない」という恐れ、不安も当然ありますが、それでも「これで、この人は変わるかもしれない」という希望を持って、サポートして差し上げる。

 

私自身も何度となく期待外れの結果に終わってしまい、結局は元の木阿弥になったことがあります。確かに「悔しい」という感情はありますが、相手の方に対して「怒り・恨み」といった感情はありません。むしろ、今回も変われなかったことが「気の毒」であり、自分自身の力不足を反省するばかりです。そして、またいつか苦しい時の神頼みで「また私のところに連絡をしてくれたらいいな」と願います。

 

過ぎ去った時間を取り戻すことはできませんし、犯してしまった過ちを無かったことにはできません。でも、生きている限り、これまでの自分を反省して、その時点から人生をやり直すことはできます。なので、私は自分が生きている限り、相手が生きている限り、絶対に諦めることはありません。たとえ、相手の方が諦めたとしても、私は諦めないで「その時」がやって来るのを待ち続けます。

 

どんなに身勝手でも、我が子を見捨てる親がいないのと同じで、仏様も常に待っておられます。いつか親孝行な子供になって欲しいことを常に願いながら、負けん気と根気と慈悲で万人を受け入れる。仏様の手を振りほどいて逃げていくのは私達ですが、仏様は常に救いの手を差し出してくださっています。「苦しい時の神頼み」でも結構ですので、一人で苦しまないで、ぜひ、お寺にお参りなさってください♪

 

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