ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-11-23 18:17

11月23日の隆宣寺日記

「論より証拠」

あれこれ論じるよりも、証拠を示すことで物事は明らかになるということ

 

たとえば、目の前にある薬が本当に効くのか、効かないのかを明らかにしようと思えば、実際に、のんでみるのが一番で、どんなに議論をしても答えは出ません。なので、新しい薬を開発する時には、当然ながら理論・理屈で設計図を組み立てて、試験的に使ってみては、その効果の有る無しを検証していきます。その繰り返しによって、より有効な新薬が完成して、私達の手元に届くのです。

 

よって、理論と証拠は両方必要なのであって「論より証拠」とは「論は不要」という意味ではありません。そもそも、理論がなければ証拠は導き出されませんし、証拠があればこそ理論も裏付けが取れます。ただ、いつまでも議論を繰り返すだけでは、それは魂が宿っていない抜け殻のような理論であり、理論を実際に行動へ移してこそ、その理論に魂が宿り、実用性のある生きた理論となります。そういう意味において、まさに「論より証拠」で、実際の行動があってこそ、その理論は完成するのです。

 

たとえば、病院の先生が私達に薬を処方してくださるのには、必ず理論・理屈があってのことです。私達は、その理論・理屈を知る必要はありませんし、きっと理解するのには途方もない時間が必要となります。そんなことに時間を費やすくらいなら、さっさと言われた通りに薬をのんでしまう方が賢明というもの。まさに「論より証拠」で、その効き目は自分自身が体験することによって、明らかになります。ただ、用法用量を守ってこその薬なので、その効き目(証拠)もまた理論・理屈に裏付けられているのです。

 

これは、仏様の教え、ご信心においても全く同じことが言えます。「どうして仏教なのか?」「その中でも、どうして法華経の御題目なのか?」には理由があります。それだけの理論・理屈が明確に存在する訳ですが、それを理解できなくても、全く知らなくても、実際にお寺にお参りして、ご信心をさせていただけば「論より証拠」で必ず御利益(証拠)があります。ただ、そのためには「教え」という理論が必要で、その上に御利益(証拠)は成り立つのです。

 

ありがたい話も「話」だけで終わってしまうと、それこそ「おとぎ話」になってしまいます。仏教は、とことん現実主義、実践主義、心と体で御利益という証拠を感じ取ってこそ、魂の宿った教え、今を生きる私達のためになる「生きた仏教」となっていきます。ぜひ「話」だけで終わらずに、実際にお寺にお参りする、御題目を唱えてみる。まさに「論より証拠」で、仏教の有難さを現実のもの、自分のものにして欲しいと思います♪

 

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