ほんもんぶつりゅうしゅう

2021-05-11 11:44

5月11日の「毎日ぶっきょう」

言葉は「心の声」であり、目に見えない心を表現しているものです。どんな言葉を発するかによって、その人の人間性や人生観なども見えてきます。どんなに「私はこういう人間です!」と自分では思っていたとしても、それに相応しい言葉が出てこなかったら、周囲の人からは評価してもらえません。反対に「自分なんてこんな人間なんです」と自分で思い込んでいたとしても、普段の言葉から信頼や信用を得て、周囲の人から評価されることはいくらでもあります。

 

シドニーオリンピックで銀メダルに終わった篠原信一氏(柔道)は決勝の大舞台で《誤審》に遭いました。メディアはそのことをセンセーショナルに報道しましたが、篠原氏はそのことに一切触れることなく「あれは自分が弱かったから負けた」「審判に不満はない」とコメントするにとどめたのです。篠原氏としては「たとえ誤審だとしても、本当の力が自分にあったなら残り時間で取り戻せたはず。それが出来なかったということは、それだけ自分の力が足りなかった」ということであり「審判が間違えるような試合をしたのは自分、誰が見ても納得する柔道をするべきだった」ということなのです。

 

そんな篠原氏の人間性を挙げた上で、当時の監督であった山下泰裕氏は次のように述べてます。

「他人を云々(うんぬん)するのではなく、それに対して自分がどうすべきであったかと、自分自身を深く見つめる。ああいうことができて、初めて彼が本当はどういう人間なのか、どういうことを大事にしているのか、それが明らかになったと思うんですね。そこには人間として非常に大事な事が含まれていると思うのです。我々は何か事が起こるとすぐに人を批判します。だけど、人を批判しても何の解決にもならないんですね。それに対して自分はどうあるべきか、自分は何ができるのか、全てを自分に置き換えて考えないと解決しないんです。」

 

自分自身を振り返ってみても、篠原氏のような潔さよりも、誰かのせいにしていた記憶の方が多くあります。どんなに口先では正しいことを言っていたとしても、それが自分の本質にならない限りは上辺でしかありません。それは、いとも簡単に見破られてしまうもので、気づいていないのは自分だけ、ということも珍しくないのです。ただ、誰しも初めから聖人君子のように立派な訳ではなく、正しく生きようとする中で少しずつ成長をしていく。そういう立派な人と共に時間を共にし、行動を共にすることで、少しずつ感化されていくものなのです。そう思うと、自分から正しい教えを求め、お手本となる人に近づくことは、実に有益なことだといえます。

 

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