ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-07-04 09:41

7月4日の隆宣寺日記

うちの家にエバーフレッシュという植木があります。3年ほど前に園芸関係の仕事をしているご信者さんからいただいたもの。普段、水やりはしていますが、それ以上のことはしていませんでした。すると、どうでしょう。枝葉は伸びたい方向へ、伸びたいだけ伸びていき、実にバランスの悪い、何とも歪な形に育ってしまいました。もはや、障子にもたれないと倒れてしまうほどのバランスの悪さ。ひとえに、私のお世話不足です。
 
枝が曲がり始めたら、真っ直ぐになるように矯正をする。雑多に伸びた枝葉は、必要に応じて剪定する。成長に合わせて植え替えをして、必要に応じて肥料をやる。もし、支えが必要ならば添え木をしてやる。そのためには毎日の観察は欠かせません。漫然と水をやるだけでは、上手に育てられません。それはつまり「良い所を引き出すことができない」ということ。木にだって無限の可能性がある訳で、それの可能性を引き出せるか、引き出せないかは、育てる側の腕が試されるところです。
 
これは人を育てる上においても全く同じことが言えます。最初から《駄目な人》というのは絶対にいません。極論ですが「育てる側が駄目にしてる」という一面があるのは、決して否定できない事実のはずです。それだけ《育てる側》の責任は大きいということですし、それだけ《育てる側》が与える影響力が大きいということです。
 
そして、育成の難しいところは常に時間が流れているということです。つまり《育つ側》は《育てる側》の都合に一切かかわらず、常に育ち続けています。もちろん、それが良い形で育っているのであれば喜ばしいことですが、もし、育てる側の怠慢で悪い形で育ってしまっていたら大変なことです。たとえ、積極的に悪い事は教えていないにしても、悪く育たないように見守り、手を加えることをしなければ、時間の経過と共に、悪く育ってしまうことはあるのです。
 
たとえば、大きく育ってしまった枝を矯正するのは、かなり骨が折れます。強引なことをしてしまいますと、それこそ本当に枝が折れてしまいます。少しずつ、少しずつ、長い時間をかけて矯正していくしかありません。これは人でも同じで、過ぎてしまった時間を取り戻すのは大変なこと。そう思うと、育てる側のちょっとした無気力・無関心が実に恐ろしいのです。育てる側にしてみれば何ら罪悪感はないと思いますが、常に時間が流れていることを強く意識しなければ、《育てる側》も《育つ側》も、お互いに不幸になってしまいます。
 
もう一度、相手に関心を持つところから改めてみませんか?必ず無限の可能性がそこには秘められていますよ!その可能性を引き出すのが《育てる側》のつとめであり、その可能性にこそ「育てる」「育成する」醍醐味があります♪
 
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