ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-10-25 10:39

10月25日の隆宣寺日記

「愛媛県にはポンジュースが出てくる蛇口が存在する…」そんな都市伝説を実現させようと、実際に『ポンジュース蛇口』が設置されています。子供の頃「家の蛇口をひねってジュースが出たらいいのに」なんて思ったことありますが、今なら「家の蛇口から生ビールが出たらいいのに」なんて思ってしまいます(笑)
 
じゃあ、実際にジュースや生ビールが出るようになったら、どうなるでしょうか?きっと最初は大喜びで、みんなに自慢したり、一緒に飲んだりすると思います。そのうち「これを有効利用しよう!」と思い始めて、色んな使い道を考えるになるでしょう。ただ、時間が経つにつれて最初の喜びも薄れ、少しも珍しくない「当たり前」の光景に…。
 
そのうち、蛇口を閉め忘れてジュースやビールが無駄になっていたとしても「まぁ、いっか…」「どうせ、いくらでも出るし…」なんて考えになり始めます。でも、ある日突然、蛇口から水しか出なくなってしまったら、どうでしょうか。きっと大きな後悔をして「なんて勿体ないことをしたんだろう」と思うに違いありません。
 
これは私達の《命》でも、全く同じことが言えるのではないでしょうか。お母さんのお腹に命が芽生えた時、無事に出産した時の喜びや感動は大きなもので、それからというもの、小さな命をみんなで大切に守り、育て、色んな夢や希望を抱きます。「はじめての○○」のたびに、みんなが笑顔になり、命の尊さをひしひしと感じるものです。
 
でも、そこに慣れが出てくると、当初のような喜びや感動も薄れてきて、そのうち興味関心が持てなくなり、その《命》は「当たり前」の光景になっていくのです。しかし、人生には必ず終わりがあって、そこに向かって常に《命》を消費しています。その《命》を何のために使うか…、時間は常に流れていて、常に《命》は消費されています。
 
もし、いつどこで《命》が終わるのかが明確にわかっていれば、計画が立てやすいですし、現時点で《命》があとどれくらい残っているのかがわかれば、計画変更もしやすいもの。せめてウルトラマンみたいに、人生が終わる少し前に警報音でも鳴ってくれれば、最期の言葉を大切な人に伝えることができるのに、すれすら全くかなわないのが現実です。
 
それなのに、今、自分の《命》を湯水のように使っている人が多いと思います。大切な人の《命》も同様に「まだまだ大丈夫」と安易に考えている人は多いものです。そして、その《命》の大切さに再び気づく瞬間は、その《命》が終わりに近づいた瞬間や、その《命》が終わってしまった瞬間であることが、残念ながら本当に多いのです。
 
自分の《命》も、人の《命》も掛け替えのない、唯一無二の宝です。その宝を今、この瞬間も使い続け、確実に終わりに近づき続けているのです。一体なんのために、この時間(命)を使うのかを、よく考えないといけません。過ぎ去った時間、つまり消費した命は、もう二度と取り返すことはできないのです。
 
人間として生まれたなら、人間としての《命》の使い方があります。そのことを仏様は私達に教えてくださっていて、同じ80年の《命》であったとしても、生き方(命の使い方)が違えば、《命》の価値も自然と違ってきます。有意義な人生となるように、有意義な《命》の使い方を教わりましょう♪
 
 ☆朝参詣御法門は【ここをクリック】(YouTube)