ほんもんぶつりゅうしゅう
2018年09月18日
日蓮大士ご降誕800年記念シリーズ その3 日蓮聖人のご法難とは

Q 「妙講一座」の中に「我等が為に、本門の肝心、上行所伝の要法を授与せしめ給わんとて、大難四か度、小難数をしらずの御弘通」とありますが、日蓮聖人はどのようなご法難に遭われたのでしょうか。

日蓮聖人が鎌倉にお入りになって数年後の正嘉元年(1257)頃より日本は大地震、台風、洪水などの天災地変が続発し、それにともなって生じた飢饉、疫病によって人々は苦しみ、貧困のどん底にあえいでいました。
 このような事態、状況を憂い、憤りを感じられた日蓮聖人は文応元年(1260)7月、『立正安国論』を著され、正しい仏法の教えに背くが故に種々の災いがもたらされるのであり、まずは為政者が正法に帰依し、政治の姿勢を正すべきであると、鎌倉幕府の権力者、北條時頼にこれを差し出されました。
 同じ年の8月、聖人はご弘通の拠点とされていた松葉が谷(まつばがやつ)の草庵において浄土宗の暴徒によって襲撃されるという難に遭われます。「松葉が谷のご法難」です。
 翌年の弘長元年(1261)5月、幕府への反逆の罪という名目で聖人は逮捕され、伊豆の伊東に流罪されます。「伊豆伊東のご流罪」です。
 2年後の弘長3年(1263)2月、流罪を赦(ゆる)された聖人は再び鎌倉において弘通活動を開始されますが、翌年の文永元年(1264)の11月、久しぶりに故郷、安房へお戻りになりました。その折、聖人は重病に陥っていた母君、妙蓮尼のために当病平癒のご祈願助行をされ、母君の寿命を4ヶ年延ばすという現証ご利益を顕されました。安房ご滞在中の11月11日、聖人は地元のご信者の招きでお講に赴かれる途中、かつて聖人を亡き者にしようとした地元の地頭東景信とその配下の者によって襲撃され、刀傷を負われるというご難に遭われました。「東条小松原のご法難」です。
 文永8年(1271)9月12日、聖人は諸宗の長老らの讒言(ざんげん)によって再び逮捕され、処刑場である鎌倉竜の口であやうく斬首の危機に瀕(ひん)しました。が、突然、江ノ島の方角より巨大な光り者が出現し、刑場の上を飛び渡るという不思議な現象が起き処刑場は大混乱に陥ってしまいました。聖人は現証のご利益を蒙りご難を遁(のが)れられたのです。「竜の口のご法難」です。
 その後、聖人は佐渡が島に流罪となり、文永11年3月までの足掛け3ヵ年をかの地でお過ごしになられました。「佐渡ご流罪のご法難」です。
 日蓮聖人はこうした数々の我が身に降り掛かったご法難を下記のように受けとめられたのでした。
「法華経の御故に已前に伊豆の国に流され候いしも、こう申せば謙(へら)ぬ口と人はおぼすべけれども、心ばかりは悦び候入って候いき。一端はわびしき様なれども、法華経の御為なれば嬉しと思い候」(阿責謗法滅罪鈔・佛立宗版御遺文集3巻323頁)
 開導日扇聖人は日蓮聖人の蒙られたご難を次のように拝せよとご教示されています。
 「問うて云わく、高祖大難にしばしばあわせ給うはいかに。答えて云わく、これ高祖の御願いなり。法華経の御為に難にもあい、身もいのちも法華経へ奉りたしと思し召したる御願い也。故に龍口の御くびの座の御時にのたまわく、日ごろとし頃願いしことこれなり。かかるうれしきことはあらじと仰せられたるを思え。」
(扇全3巻166頁)