ほんもんぶつりゅうしゅう
2019年06月01日
日開上人宗葬 講有上人の歎徳文
講有上人の歎徳文


本日茲に本山宥清寺御宝前において恭しく壇を設け、荘厳の誠を尽くし修する処は、去ぬる3月3日、法寿85歳を以て化導の一期を終え、け化を寂光に遷さる 本門佛立宗第25世講有、本山宥清寺第66世住職、大僧正日開上人、宗葬の儀。知見照覧なさしめ給え。
熟々上人一代行化の跡を按ずるに、上人は昭和10年11月17日、大阪市天王寺区において、山内良得 後の権大僧正日領上人を父君、富枝女を母君として出生せり。弟2人、妹3人、6人兄弟の長男にして、利一(としかず)はその幼名なり。
父の厳しさ、母の優しさ、両親の慈愛に育まれし上人は、毎朝、廣宣寺本堂回廊の雑巾がけ、冬は練炭の火起こし欠かすことなく学校に通学。太平洋戦争時、西宮空襲ではお祖師さまの御尊像のお伴をされ、父君と伴に疎開さる。津門小学校卒業後、今津中学校では生徒会長を務め、関西学院高等部入学、関西学院大学文学部哲学科を首席で卒業。大学院への進路を勧められるも、父君と同じ佛立教務となる決意固く、これを固辞されり。
昭和33年9月6日、清風寺において後の佛立第18世講有日地上人を師匠として剃髪得度。僧名を「淳奧」と授かりたり。
得度以来、行学二道に精進され、清風寺御宝前とお師匠日地上人にお給仕の誠を尽くされり。
昭和45年、教学講師拝命を皮切りに、昭和55年、教育院理事、第17期宗会議員、昭和57年、日地上人ご講有晋位後、清風寺住職に就任、昭和58年、本宗弘通局局長、総合教育委員会副委員長、
昭和60年、福岡本法寺住職に就任、昭和61年、厳父日領上人ご遷化に伴い廣宣寺住職に就任、平成3年、佛立研究所初代所長、第11支庁長、平成6年からは弘通顧問を歴任、平成15年、本宗宗務総長就任、平成24年、佛立第25世講有位を継承、本山宥清寺第66世住職に晋山、宗門の総導師として、門祖550回御遠諱を無事円成。続く、佛立開導日扇聖人ご生誕200年慶讃佛立開花運動を推進せり。
一方、廣宣寺にあっては昭和61年住職就任後、廣宣寺の組織作り・人作りに邁進せり。爾来30有余年。その間、平成7年には阪神淡路大震災が発生。阪神間の被害は甚大にして、廣宣寺も罹災は避けられず、全壊の被害を蒙るも、早期復興再建に向け上人先頭に立って教講を教導、教講不屈なる護法の信心を奮起し、また、全国宗門人教講各位の絶大なる支援を得、平成9年、本堂早期復興再建の祈願叶い見事に復興を果たせり。「妙とは蘇生の義なり」の祖訓を体現せられき。
上人は常に宗門の将来に思いを馳せ、佛立教講の異体同心、信心改良を念願され、御自ら率先垂範・不自惜身命のご奉公。嗚呼、上人、最期の最期まで、ご奉公一筋、信心一徹の人なるや。
斯くの如き八面六臂のご奉公は席の暖まる暇を余さず。昼は終日、夜は終夜、ご弘通ご奉公に精を尽くされし上人の一期の化導は、人知れず円成の時が近づけり。
嗚呼、天なるかな命なるかな、本年3月3日午前2時16分、今番一期此土化導の本因妙行を了え、泊然として化を寂光に遷さる。
温容謦咳今既になし。地に伏し天を仰ぎて哭すれども、有漏の凡情いかでか之に耐ふべき。惜しみても余りある遷化なり。
されど、夫れ聖賢たりと雖も生者必滅す。諸行無常は娑婆の習い、会者定離は浮世のにして、嘆くべきに非ず。今、有縁の教講その遺影を拝し異口同音に唱え奉る御題目、但だ上人の自受法楽佛果荘厳を飾らん。
上人、今はひとまず寂光に還り、恩師日地上人、厳父日領上人の御前で、此土の使命の無事終えんことを奉告され給え。必ずや両上人はお誉めの言葉をもって、お迎えあそおばされる事と信ず。
請い願わくは、「在在諸佛土 常與師倶生」の御契約に委せて浄佛国土の大願成就なさしめ給はんことを。
経曰「若親近法師 速得菩薩道 
隨順是師学 得見恒沙佛」文
本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経

維時 令和元年5月10日

本門佛立宗
第26世講有 日良  敬白