2020年08月01日

各国の佛立教講への励ましのメッセージ 一念信解の信者になろう イタリア・スリランカ教区長 福岡日雙

日本の格言(深い経験を踏まえ、簡潔に表現したいましめの言葉)の一つに「桃栗3年、柿8年」という句があります。
 「桃や栗の木は苗木から育って3年ほどたつと実がなるようになる。柿は8年ほどかかる。同様になにかを習得するのにもある程度の年数が必要だ」という意ですが、仏教の世界では「唯識(ゆいしき)3年、倶舎(くしゃ)8年」といった昔から言いならわされた句があります。
仏教心理学とでもいうべき「唯識論」を理解するには3年の勉学が必要、仏教における「法」とはなにかを論じた「倶舎論」を習得するには8年の歳月を費やさねばならない。それくらい仏教の教理は難解なものであり、一般の人々だけでなく、仏教修行者にとっても安直に身につけられるものではない、という戒めの句なのです。
 元の格言「桃栗3年、柿8年」という句に壺井栄(つぼいさかえ、1899~1967)という作家がこんな言葉を付け足しています。「柚(ゆず)の大馬鹿18年」
 壺井栄は柚という果実を実らせる木を小馬鹿にしているのではありません。18年もの間、実を成らせようとしてきた柚という木の愚直さ、一途さを見習いたいという気持ちを「柚の大馬鹿18年」という言葉に込めているのです。
 釈尊の数多くのお弟子方の中に「シュリハンドク」という方がおられました。シュリハンドクは釈尊のご説法を聴聞しても、その意味がほとんど理解できない愚鈍な弟子でした。時に自分の名前すら思い出せないほどの忘れん坊でもありました。
 難しい修行もまったくこなすことができず、難解な教理を理解することのできなかったシュリハンドクは釈尊から1本の箒(ほうき)を与えられ、毎日、僧院の庭を掃き清めることを自身に課せられた唯一の修行にして月日を過すことになりました。
そしてシュリハンドクは、ある日、箒を手に庭掃除をしている時、はたと気づいたのです。「ひたむきさ、一途さこそが仏道修行の心髄、心に妙法という清らかな花を咲かせる道なのだ」と。
この瞬間こそがシュリハンドクにとっての悟りの境地感得であったのです。
 私たちもお互い名字(みょうじ)即(そく)宗(しゅう)のひたむきで一途な佛立信者となって、さまざまな限界を乗り越え、悟りの境地を感得させていただきましょう。

(注)名字即宗
門祖日隆聖人は、日蓮聖人の教えに基づいて、喜びの念を懐いて一向、一途に御題目をお唱えするご信心のあり方を「名字即宗」と名付けられた。