ほんもんぶつりゅうしゅう
2016年09月01日
開導聖人御銅像物語(1)御銅像の歴史〜建立から再建へ〜
明年・平成29年(2017年)は、いよいよ佛立開導日扇聖人ご生誕200年ご正当の年を迎える。宗門では、その慶讃記念事業の一環として、本山宥清寺境内に建立されている「佛立開導日扇聖人御銅像」のご修復を発願。現在、全国各寺院教講の志篤い浄財奉納ご奉公をいただきながら、順調に作業が進められている。そこで佛立新聞では「開導聖人御銅像物語」と題して、御銅像建立の歴史やエピソードなどを、9月号と10月号の2回にわたり紹介させていただく。ご生誕200年慶讃・佛立開花運動必成に向け、大いに励もう!

 
〔御銅像の建立〕

 本山宥清寺境内に建立されている『佛立開導日扇聖人御銅像』は、大正12年(1923)塚原新三郎氏らが発起人となりその建立計画が始まった。※(1)

 同15年(1926)茶道具造りの職人集団で「千家十職」《茶道に関わり三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)に出入りする十の職人を表す尊称》の茶釜製造の名工・大西三四郎氏※(2)が御銅像の原型を製造。そして「京の名匠」とうたわれ、当時、全国でも鋳造において右に出る者がいなかった高橋才治郎氏※(3)を鋳造師として鋳造を開始。ところが昭和2年(1927)御銅像の鋳造は終わったものの、建立地が新たな根本道場(現・本山宥清寺)建立予定等の関係で、また台座の部分の費用の調達が出来ていなかったこともあり、建立計画が一時ストップしてしまったのだ

 同7年(1932)根本道場等の工事が一段落したころに、本部(京都)婦人会※(4)の志篤きご有志があり、御銅像の台座工事に着手することができ、立派な台座が完成。ここに「佛立開導日扇聖人御銅像」が無事に建立されたのである。

 この年は高祖650回御遠諱大法要奉修の年であり、この御遠諱に当たっては『根本道場(現本山宥清寺)の開堂式』と『開導聖人御銅像の建立』が二大事業となったのである。

 高祖650回御遠諱大法要(10月11日から13日までの3日間)に先立つ10月2日午前11時より、佛立開導日扇聖人御銅像の『除幕式』が厳粛に執り行われた。一座のお看経の後、長松千鶴子さん※(5)によって御銅像の除幕が行われた。また御銅像製造・大西三四郎氏と鋳造師・高橋才治郎氏へ御講有猊下(第七世日淳上人)より感謝状が授与され、最後に長松品尾女史が挨拶をされた。

 なお、当日は来賓として京都市長の森田茂氏が出席し祝詞を述べていることから、御銅像の『除幕式』がとても盛大であったことを伺い知ることができる。


〔再建に向けて〕

 太平洋戦争に突入した日本は戦局が悪化し、物資、特に武器生産に必要な金属資源が不足し、それを補うために、官民所有の金属類の回収が始まった。昭和18年(1943)4月28日、本山宥清寺の佛立開導日扇聖人御銅像も、この金属類回収で供出されることになった。

 そして終戦後の昭和25年(1950)山本安廣氏が『御銅像』の再建立を発願され、講有上人(第十一世日颯上人)、講尊上人(第七世日淳上人)にお伺いを立てられた。両上人はこの申し出に心から随喜され、種々ご指導をなされた。また宗務本庁も「高祖立教開宗700年」の記念事業として、全国の寺院に協力を呼びかけ、後援することとなったのである。
(つづく)


※(1)発起人の塚原新三郎氏やその建立計画についての資料は、残念ながら残っておらず詳細が分かりません。これ等に関しての資料をお持ちのお方がありましたら、ぜひ佛立新聞編集部までお知らせ下さい

※(2)兄弟弟子に北村西望(せいぼう)がいる。北村氏は文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章を受章した日本を代表する彫刻家で、代表作に「長崎平和祈念像」がある

※(3)本山宥清寺本堂前の燈籠も高橋氏の鋳造

※(4)長松品尾(開導聖人のご養女)女史を中心として、ご婦人方が集まっていた。当時は風喜会《開導聖人・長松清風の風と二世日聞上人・現喜師の喜をいただいたもの》と呼ばれていた

※(5)大僧正・長松日峰上人の次女。当時4歳であった

 現在、御銅像ご修復の浄財勧募を行っておりますが、奉納締切が9月末日までと迫ってまいりました。ぜひとも志篤い浄財喜捨奉納をさせていただきましょう。


【佛立開導日扇聖人御銅像 年表】

◆大正12年(1923)塚原新三郎氏らを発起人として『佛立開導日扇聖人御銅像』の事業計画がスタート
◆大正15年(1926)「千家十職」の茶釜製造の名工・大西三四郎氏が御銅像原型を製造。鋳造師は高橋才治郎氏
◆昭和7年(1932)全国ご信者の志篤いご有志をいただき無事に『御銅像』完成
◆昭和18年(1943)戦時下の金属回収で『御銅像』は供出されることとなる
◆昭和25年(1950)『御銅像』を再建したいと山本安廣氏が発願者となり全国へ勧募を呼びかける
◆昭和27年(1952)高祖日蓮大士立教開宗七百年の記念事業として再建
◆平成28年(2016)再建から64年、開導聖人ご生誕二百年慶讃ご奉公の記念事業として『御銅像ご修復』を発願。9月27日、『佛立開導日扇聖人御銅像ご修復完成披露式典』を奉修予定


〔梶本御講尊に伺ったエピソード〕

 御講尊・梶本日裔上人に開導聖人の御銅像に纏わるエピソードをお聞きしたところ、興味深いお話をお教えいただいたので、ここに紹介させていただきます。

 戦時下の金属の回収で開導聖人の御銅像も供出されることになったが、長松品尾(開導聖人のご養女)史は『そんなこと(開導聖人の御銅像を潰して戦争に使う)したら日本は戦争に負ける』と怒っておられたそうだ。

 とにかく、長松品尾史は開導聖人から直接にご信心を仕込まれた筋金入りのご信心前。そして大変頭の良いお方であられたそうだ。講政会議(現在の宗会)にも出席しシッカリ聴講し帰られる。そこで金属供出の話を同じ講政会議に出席されていた日颯上人(十一世講有)や日宥上人(十二世講有)、そして誕生寺の野原日海上人に意見される。「金属回収(開導聖人御銅像の供出)は絶対にダメ」と。この御三方は、品尾史には全く敵わない(だって開導聖の養女なんだから)。そこで、品尾史の留守中に御銅像を奉献しようということになったという。

 当時、品尾史のような発言(開導聖人の御銅像を潰して戦争に使ったら日本は戦争に負ける)をすれば、即刻、特別高等警察(国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認する者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした日本の政治警察)に捕まってしまう時代。しかし、品尾史のこの発言は決して非国民的なものではなく、開導聖人に対する「深い敬愛の念」と御法への「篤き思い」からなのである。品尾史の純粋なまでのご信心に対する姿勢にただただ、随喜させられる。